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25 「成れば則ち譎(イツワリ)を正と為し、敗るれば正を譎と為す」清河八郎
文久2年、清河八郎が田中河内介と画策した京都挙兵は寺田屋事件により、失敗しました。5月初旬、再起を考える清河は藤本鉄石・安積五郎と大坂の薩摩藩邸を訪ねましたが、よい反応は得られませんでした。関西は無理だと判断した清河は東下することにし、その途中、伏見の薩摩藩邸に立ち寄りました。そこには、京都挙兵計画に参加した岡藩士小河一敏(おごう・かずとし)・赤坐弥太郎ら20余名が、東下した島津久光の帰京を待って、滞留していました。小河は最初、青蓮院宮の命を偽り、彼らをだました清河に冷笑を浴びせました。しかし、清河の陳弁に納得し、酒を酌み交わしたそうです。

小河の不信感を溶かした清河の陳弁はこういうものでした(仮書き下しbyヒロ)。

「匹夫天下の為に大義を企つ。何ぞ必ずしも縄を趨(ハシ)り規を歩まん。いやしくも事義に適い、行い身に私無くば、何為(ナンス)れぞ其の由り起る所を極めん哉。事固より一道に論ずるべからず。此の謀をして悉く之を成さしむ。孰(イヅ)れ敢て言辞を容る。其半途にて毀に及ぶ。因りて其の跡を責む。何ぞ其れ之を見るに遅なる也。成れば則ち譎(イツワリ)を正と為し、敗るれば正を譎と為す。人情は自ずと然り。何ぞ今に始むる也。然れども、既に此の勢に至り、天下をして面目を改めしむ。未だ必ずしも我が党の感奮に由らずんばあらず」(出典:「潜中紀事」『清河八郎遺著』←漢文を学校で勉強したのは20年以上昔だし、歴史的仮名づかい等、あまり自信がないので絶対に引用しないでくださいね^^;)。

う〜ん・・・強烈。この時代の志士にはこういう論理が人気を博したんでしょうか。管理人なら、「何いってんだ、コイツ!」とよけいに不信感を増してしまいそうな台詞なんですが^^;。

関連:■「今日の幕末京都」文久2年4月23日−寺田屋事件
■「開国開城-文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件

(2003.6.1)

24 田中河内介と明治天皇
寺田屋事件から間もない文久2年(1862)5月2日、小豆島に2体の斬殺体が漂着しました。

斬殺体は公卿中山忠能(明治天皇の外祖父)の元家臣田中河内介・左馬介父子でした。河内介は寺田屋事件の原因となった尊攘激派による京都挙兵計画の中心人物の一人でした。事件後、同志の薩摩藩士とともに薩摩に護送されることが決まり、4月27日、海路大坂を出発していました。しかし、薩摩藩要路は、河内介が薩摩に在れば事を起すのではと懸念し、護衛の藩士に殺害を命じていたのです。船中、殺害された二人の遺体は海中に投げ込まれ、偶然、小豆島に漂着したのでした。その身体は後ろ手に縄を掛けられ、足かせをかけられていました。

***

時は過ぎ、明治2年。明治天皇が無礼講の宴を開きました。出席者は三条実美、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)ら「維新の元勲」。その宴で、明治天皇がふと田中河内介について問いを発したそうです。

「朕がなほ幼少で、中山家に養育せられて居た文久二年の頃と考へるが、伏見寺田屋に事変があって、田中河内介と申す者が、矢張りその事変に関係して居って、薩藩へ預け置かれる事になったと聞いて居ったが、その後河内介父子の者は、如何に相成ったか、更にその消息を聞かぬ。同人は誠に忠誠の士であったが、その成行はどう相成って居るか。卿等の中にそれを知る者はないか」

左右の者は、頭を垂れて、誰一人答えられず、暫く沈黙が続いたそうです。(天皇の養育掛の悲惨な末路も告げ難いものですが、父子を殺害させた薩摩藩の関係者がその場にいたので、なおさら何も言えなかったのでしょうね・・・)。不機嫌になった天皇が重ねて尋ねると、側に控えていた小河一敏(おごう・かずとし)が静かに進んで答えたそうです。

「同人はあの砌(みぎり)薩藩へお預けという事に決しまして、同藩の船で鹿児島へ送られる途中、播磨灘の沖合に於て、手足を緊縛せられ、無惨にも警護の藩士に斬殺されまして、海中に投げ込まれ、そのまま行方不明という事に相成って居りまするが、倅磋磨介(左馬介)の亡骸は、日向の或漁村に流れ着いて、只今では一基の碑となって、道行く人に香華を供えられて居りますが、同人の死は誠に無惨の限りで御座りました」(実際は、河内介・左馬介父子の遺骸は小豆島に漂着しました。日向で薩摩藩士に斬殺された海賀宮門と混乱があるようです)。

小河は岡藩出身。京都挙兵計画にも参加した河内介の同志でした。

「それは哀れな事を致した。当時の事情は深く知るところではないが、河内介も中山家の諸大夫であった事を、警護の者共が知らぬ筈はないと思うが、手足を縛って斬殺するとは、如何にも無惨な取扱いを致したものぢゃ」

天皇は感無量という体で、しばらくは眼を閉じ、沈黙にふけったそうです。座は白け、天皇の退出とともに、散会となったそうです。

【参考】『田中河内介』(昭和16年)収録の伊藤痴遊講談より。「」内は原文引用ですが仮名遣い・漢字は現代風になおしています。

*なお、同様のエピソードが司馬遼太郎「歳月」に収録されています。「歳月」では田中父子の暗殺を命じた者を大久保だと断定しており、天皇の下問に対して小河が大久保を指を差して糾弾しています。「歳月」のエピソードは伊藤痴遊の講談をもとにしているのかもしれません。(ちなみに田中父子に暗殺を命じた薩摩藩士が誰かという点については諸説あるようです→覚書で整理する予定^^;)。

関連:■「今日の幕末京都」文久2年4月23日−寺田屋事件
■「開国開城-文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件

(2003.5.27)

23 意外!寺田屋事件当日、京都観光していた大久保利通

文久2年4月23日、京都挙兵計画に参加する薩摩藩士尊攘激派と島津久光の命令で説得に来た薩摩藩士が伏見の寺田屋で闘いになりました。寺田屋事件です。不穏な動きはそれより前からあり、久光は度々藩士を送って激派の説得に当たらせていました。20日には大久保利通が、大坂に集まる激派の説得にいっていますし、事件前日の22日にも奈良原喜左衛門らが大坂に派遣されています。薩摩藩邸は相当緊迫していたはず・・・(と思いませんか?)

ところが、意外なことに、大久保利通は、23日には、4つ(14時ごろ)で仕事を終えて知恩院に見物に出かけ、膾々堂というところで、のんびり茶菓子を喫していたようです。帰邸は日暮れ前(18時ごろ?)でした。

確かに、久光が大坂に派遣した奈良原らから京都挙兵を知らされたのは申の刻(16時ごろ)だといいますから、大久保はそれを知らずに遊びに出かけたわけですが・・・大久保は自分の説得が功を奏したと信じ込んでいたんでしょうねえ・・・。薩摩藩は実はそんなに切迫した危機感をもっていなかったのでしょーか・・・?(いや、あの大久保のことだから、日記にはお茶してたって書いてるけど、実は、なにか、密談・・・だったりして・・・うぅん。・・・・・・それにしても、藩邸に戻って、激派の寺田屋終結を知ったときには仰天したことでしょうね・・・)

【参考】『大久保利通日記 一』など(2003/5/19)

関連:■「今日の幕末京都」文久2年4月23日−寺田屋事件
■「開国開城-文2:薩摩の国政進出-島津久光の率兵上洛と寺田屋事件

22 「パン祖」!江川太郎左衛門


韮山代官・江川太郎左衛門(英竜、坦庵)といえば幕末の「
開明派幕臣三兄弟(江川・川路聖謨・羽倉外記」)の一人で「海防の父」と呼ばれる人物。戦前には「国防の先覚」として有名だったといいます。

江川は、
西洋砲術家で、幕命で品川のお台場を建設したり、反射炉(大砲鋳造炉)を伊豆に建設しました。門弟は佐久間象山、川路聖謨、桂小五郎、中浜万次郎(ジョン万次郎)、井上馨、黒田清隆、大山巌など錚々たる人々を含め、実に4000余名だといいます(在世中の門人は300人程度)。

この「海防の父」江川が、意外や意外、「
パン祖」と称されているんです(全国パン協議会)。

江川がパンの製作を始めたのは天保13年(1842)頃だったそうです。アヘン戦争が拡大し、幕府(水野忠那)が海防強化に乗り出した頃です。江川は兵糧食・非常食としてパンの備蓄を考えたそうで、乾パンが作られたようです。(菓子パンが作られたことを否定する根拠もないそうです)。

ところで、江川はパンの存在をどこから知ったのでしょうか?実は、パンは戦国時代にポルトガルが持ち込んだものであり、当時にも兵糧食として使われたそうです。鎖国後も長崎出島でパン製作は続けられていました。そして、高島秋帆が長崎に赴任したときに、非常食として目をつけ、乾パンの製作を奨励しました。江川も長崎出身の秋帆門下生から製作技術を学んだのだとか。こうなると、「パン祖」という呼称はあてはまらないようですが、江川研究家の仲田正之氏によれば、「江戸で評価を得なければ、何事も完成と認められぬという風潮」があり、江川が「パン祖」と呼ばれることになったのだそうです。

【参考】『人物叢書 江川庵』(吉川弘文館)

関連:「開国開城」「開国前夜」

(2002/10/22)



21 徳川斉昭「烈公」の恐るべき蝦夷征服開拓計画!
司馬遼太郎『竜馬がゆく』を読んでいると、蝦夷地に浪人を送って開拓させる計画は、坂本龍馬のアイデアのような感じを受けますよね^^?でも、実は、あの「攘夷の巨魁」、烈公こと9代水戸藩主徳川斉昭のほうが目をつけたのは早かったんですヨ。烈公は天保9年には蝦夷地開拓のために豪商を調査に送っています(斉昭が最初の大名なのかどうかはよく知りません)。山川菊栄『覚書幕末の水戸藩』によれば、明治になってつけられた北海道という名称も屯田兵制度もこの頃の烈公の発案だそうです(北海道の名称を選定したのは松浦武四郎です)。

烈公は、「藩の次、三男、全国的に有り余っている浮浪寄生の徒、もて余しものの無頼漢まで幕府に頼んでもらいうけ、産業開発と国防の一石二鳥」(『覚書幕末の水戸藩』)をめざしていたといいます。

その烈公の恐るべき蝦夷地征服、もとい、開拓計画とは!
  • 若い男性をたくさん連れていくので遊郭設置、男は先住民(アイヌ民族)の女性に「強い日本男子の子をどしどし生ませろ」、その子供は公共の施設で共同に保育し「父は知れても渡すな」(烈公自ら先住民の側室を多くいれて「強い日本男子」の子孫を増やすと意気軒昂。さすが艶福家^^;)。
  • 先住民固有の言語風俗を禁じて本土風に改める。
  • 先住民の男性には軍務と労役を課す。
  • 本土から送る日本人には武装させる。女性には短銃をもたせる
もちろん、烈公のことですから、浪人の国をつくるという気は毛頭ありません。蝦夷を開拓して水戸領とし、藩財政に資するつもりでもありました。水戸領にしようと、幕閣にわいろ工作を繰り広げたそうですが、失敗に終わりました。

う〜む・・・時代が時代とはいえ・・・先住民族人権無視^^;。『覚書幕末の水戸藩』の著者、山川菊栄も書いていますが、烈公ってば、朝鮮半島の人々に日本語と和服を強制した帝国日本の魁みたいな発想ですよネ。幕閣が烈公の賄賂に目がくらまなくてよかった・・・しみじみ。

ちなみに、烈公夫人登美宮も蝦夷まで付いて行くとはりきっていたらしいです。蝦夷に興味があったのか、烈公の女性好きをみはるためなのか(いまさらという気もする:笑)はわからないけれど、有栖川宮家のおひいさまにしては、元気もの!・・・さすが烈公の奥さん&慶喜のお母さんというべきか・・・。


【参考】『覚書幕末の水戸藩』

*近世の蝦夷(松前藩VS先住民族アイヌ)の歴史については、井上勝生『日本の歴史18 開国と幕末変革』(講談社)の序章がわかりやすくておすすめです。

(2002/10/15)


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