20.文久2年・諸藩を魚にたとえれば(1) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この風刺が世に出たのは、薩摩が動き出すと大騒ぎ・・・というあたりから、寺田屋事件か生麦事件の後だと思います。 参考:「無慮雑集」『桜田騒動記・官武通紀』 2002/10/13 |
19.「 激烈老」 大原重徳 |
越前藩の記録『再夢紀事』より 文久2年に慶喜・春嶽登用の沙汰をつげる勅使として島津久光と東下した大原重徳(おおはら・しげとみ)は、勅旨伝達後、あらためて松平春嶽・松平容保・老中らと対面しました。そのとき、最初の挨拶がすむと一同黙りこんでしまったので(きっと、公卿初対面の幕府のみなさん、何いっていいかわからず、沈黙・・・さぞや白けた雰囲気のでは^^;)、春嶽が「勅意の趣ありがたき次第」とお礼を言ったそうです。残りの者も口々に「ありがたし」と言ったころ、大原は「ナニガアリガタイノジャ」と答えたとか(あぁっ!せっかくの苦し紛れのお愛想を〜^^;)。 さて、この大原がどんな人物だったかというと・・・ 「野史氏いう 大原殿年六十二有名なる頑固の攘夷家なり。先年備中殿上京の節、伝奏坊城殿の関東に阿党するを悪んで途中に刺殺さんとて走り寄りて駕の簾を排けられしに人違いにて其事を果されりし程の激烈老なり 此度の勅使は薩と同行といい、前途の艱険を畏憚して堂上誰あって御請けに及ぶ人なかりしに此御退隠の身ながら請うて奉勅に及ばれたり故に 御待遇も一ト通りならず困難なりし」 攘夷一徹、しかも公家にしては豪胆なじいさんだったようです。勅諚を請ける様子のない老中に対し、三度目の登城時には、「いよいよ御請けなきに於ては、禍害立所に足下の身に及ぶべし」と言ったり(実際、大久保一蔵との打ち合わせで隣室には薩摩藩士が控えていました)、四度めにはこんど勅諚の遵奉のないときは生きては帰らぬ決心をしていたそうです。(この激烈じいさんは衛士の伊東・三樹兄弟を気に入ったようなのですが、そのお話はまた^^) 関連:開国開城:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革 2002/9/18 |
18. 坂本龍馬語録?(1) |
大正3年初版の坂本龍馬(千頭清臣著)の復刻版、『坂本龍馬伝』(新人物往来社)に龍馬語録とされる「英将秘録」が載っています。おもしろいと思ったものをピックアップしてご紹介します。
(2002/8/31) |
17. 春嶽の人物評(3) 宮・公家たち(中川宮、鷹司関白、岩倉具視) |
■中川宮 攘夷を好む名目にして、真に好むにあらず、公武合体を専一と被相考、公武合体さへすれは、攘夷でもよろしく、又外交あつてもよろしく、何分中川宮は、徳川の威勢を盛んにするの目的なるべし。徳川の威勢を借て、何ぞ無比の希望ありしやと想像されし。慶喜の性質と中川宮の御性質とよく似寄りたる事奇妙なり。 ■鷹司関白 真に攘夷を好む様子でもなく、只堂上並諸藩士或は浪人等に被迫候より、苦痛の体に見え・・・。 ■岩倉具視 岩倉公の英雄は誰々しもしる事 岩倉公の事蹟は、衆人の知る所なり。たとへ西郷・大久保・木戸・広沢の如き英雄あるとも、岩公なくんば此一大事業をなす不能。是も為朝廷斃れて止むの気象なり。 参考:『逸事史補・守護職小史』 (2002/4/30) |
16 松平春嶽の人物評(2) 大名(井伊直弼、島津斉彬・久光、山内容堂) |
■井伊直弼 徳川家の威光を盛んにせんとの志にて決て私慾する積てはなかるへし 彦根公の英断は今に至りては感すへし。 一橋慶喜の将軍擁立運動を推進した春嶽は直弼の政敵でした。安政年6月、幕府が勅許なしで条約に調印(違勅調印)すると、定められた登城日ではないにも関らず、斉昭らと登城して大老井伊直弼(彦根藩主)を詰問し、翌7月不時登城を理由に、わずか31歳で隠居・謹慎に処せられました。それなのに、明治になってとはいえ、直弼を評価する・・・なかなかできないことではないでしょうか。この評価は、管理人が春嶽に興味をもった理由の一つです。 関連:開国開城:戊午の密勅と安政の大獄 ■島津斉彬 全く御一新の功業を引起せし原由は、島津斉彬公にして、此人は余が朋友とし、師とするもの也。中々水戸烈公の如き御方にはあらず。頗肝大にして、外面は英雄らしく見へねども、中々才智よりは道徳を重んぜらるる人なり。夫故温順恭遜にして、しかも学問あり。 ■島津久光 頗る因循家にして、古法を守する事と衆人申したり。幕府の時分より今に至るまで如斯いへり。悪口もあれど、中々才智よりも道徳を重んぜられ、尊王の志は却って斉彬公よりも超過せりと考えられたり。 ■山内容堂 容堂公は至て正直の人なり。故に我意に叶ふ者は十分引立、少しも気に入らざるものは大に疎斥せり。元来は佐幕家にして、幕府の衰弊するを大に患ふ。 後に公武不和に至るを以、頻に朝幕の和平を専務とせられたり。後に幕府の見るに不足、助くるにたらざるをしりて、専ら勤王の志厚く相なりたり。此人も中々一己の見識ありて、決て家来に使役せらるる人にあらず。 参考:『逸事史補・守護職小史』 (2002/4/30) |