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29  会津藩士の酔っ払い(丹羽寛次郎VS久坂玄瑞) 04/6/23
長州の酔っ払い王・周布サンの話が続いたので、ここで、会津藩士の酔っ払い話をば。だいたい時も同じ文久2年末頃(推定)です。

京都守護職を拝命した会津藩主松平容保に随従して上京を命じられた丹羽寛次郎(のち公用人)がまだ江戸に滞在中のこと。最上藩士との酒席にたまたま長州藩士久坂玄瑞・桂小五郎が居合わせたとか。丹羽は酔った勢いで、久坂の短髪を揶揄して「叛かんと欲せば早く叛くべし。僧ならず俗ならず、何ぞ斯くの如く曖昧なるや」とのたまい、桂の顔をのぞきこんで「汝の面、何ぞ奸相なるや」という暴言をはいたそうだ・・・^^;。

<参考>『戊辰戦争は今』(歴史春秋社)。このエピソードの出典史料は広沢安宅(安任の甥)の『幕末会津志士伝 孤忠録』の丹羽寛次郎の項のようです。いつか入手できれば、それを見て書き直しますね。

***
残念ながら、久坂・桂の反応は記されていません。周布サンが居合わせなかったのが不幸中の幸い(笑)?

ところで、これはいつごろの話かというと・・・桂が江戸に到着したのは11月23日のことです。会津藩が江戸を出立して京都に向ったのは12月9日なので、この一件はその間のことになるでしょうか。この時期、実は、会津藩が、京都での尊攘激派の勢力伸張に危機感を感じて、武力制圧策を考えていたんですよ(こちら)。会津藩にとって、長州はすでに「仮想敵」だったので、酔いに任せて、ついつい、本音を言っちゃたのでしょうか・・・。もしかすると、とっとと叛いてくれれば遠慮なく武力制圧に踏み切れるのに!という気持ちがあったのかもしれませんネ?

28  長州と土佐の酔っ払い王対決 04/6/23
その1
文久2年11月5日、世は攘夷別勅使三条実美・姉小路公知の到着でお江戸がおおわらわだった頃、土佐の前の殿様山内容堂は、勅使と一緒にやってきた長州藩世子毛利定広に招かれて、小南五郎右衛門・乾退助らを連れて屋敷を訪問した。長州藩からは周布政之助・久坂玄瑞らが出席した。もちろん、酒宴になった^^。

ところが、酒が進むと、酔っ払いの容堂は、ひょうたんを逆さにした絵を書いて、「長州はこれだ」と大笑いしたらしい。(権力の上下が逆になってることのあてこすり)

やがて容堂は久坂玄瑞に詩吟を所望した(久坂は詩吟がうまかった)。久坂は、かつて僧月照が村田清風に寄せた長歌を吟じ、「吾れ方外にてなお切歯す。廟堂の諸老公何ぞ遅疑するや」で止めた。そこへ(もちろん酔っ払いの)周布が「容堂さまもまた廟堂の一老公」と指差したとか・・・。

どっちも、なんとなく面白くない気分でわかれたようだ。

その2
それからまもない11月13日、長州藩激派の高杉晋作・久坂玄瑞ら11名は横浜居留地襲撃を計画して神奈川へ向った。しかし計画を知って蒲田梅屋敷に急行した世子毛利定広から直接に説諭を受け、落涙・謝罪し、計画を断念した(こちら)。(←そのわりには、定広が江戸から去るやいなや、品川の英国仮公使館を焼き討ちするんですケド:笑)。

梅屋敷では酒肴が出され、高杉らが、やはり説得にやってきた土佐藩の使者(とともに飲んでいたところ、馬を走らせた周布政之助が登場し酔った勢いで「容堂公はなかなか御上手の御方、尊王攘夷をチャラカシなさる」と放言。激昂した土佐藩士が詰め寄ったが、高杉が抜刀して間に入り、「拙者が(周布を)成敗する」と刀を振り上げたのを久坂が「待て」と抱きとめた。久坂が高杉を止めている間に周布は馬で逃げ、なおも後を追おうとする土佐藩士を年長の小笠原唯八(牧野群馬)が制止し、「一大事の使者なれば復命の後に周布に向うべし」と帰邸した。(『維新土佐勤王史』)。(周布さ〜ん、何しにきたんでしょーか^^;?)。

なお、続再夢紀事では。周布は「此節容堂君は日々登城せらるれども才気に任せて一時を せらるるのみにて攘夷のことにも遵奉の事にも未だ実効なし。実は隠居の身にて要なきことに手を出さざるものなりなど誹謗すれど、此節から此君なくては到底目的を達する事能わず」と言ったのを、土佐藩士が聞き違いをし、「主人を悪口せられては聞き流しがたし、いざ勝負」と腰刀を立てて詰め寄ったとされている。長州藩士11名がその間に入り、高杉・久坂が「御憤りはさる事なれど此席にて諸君の手にかけんとせらるれば拙者共は却て周布を保護せざるを得ず。ゆえに今日のところは拙者共に任せらるべし。尤も任せられし上は拙者共周布を討ちて明朝その首級を貴藩の御邸に持参すべし」となだめたので、それならと土佐藩士も納得したとか。

この事件は、翌14日、土佐藩士4人が長州藩邸に周布の身柄引渡しを要求する騒ぎに発展するが世子定広自らが応対して陳謝。「周布の首を取ろうか」といったので、4人もあきらめたらしい。といっても、周布もさすがにそのままではおられず、麻田公輔と名を変えて藩の仕事についたそうな。

もっとも、歴史家の奈良本辰也さんは、そもそも周布が酔って梅屋敷に駆けつけたのは、実にやりきれない思いがあったからだと同情している。「晋作という奴やつはいろいろな問題で自分に苦労ばかりかけ、ようやくここまでとりなしてきたかと思うと、またこの始末なのだから。しかも政局は、藩の方向転換(管理人注:長井雅楽の航海遠略策から破約攘夷論へ)、幕府の「破約攘夷」の勅旨奉戴と急速に好転しつつあるときではないか。なんと叱りつけてよいかわからぬうちに、つい鉾先きが土佐藩に向いてしまったのである」と。つまり、高杉のせいですか(笑)?でも〜、周布サンのフォローをするひとたちも相当大変だったんじゃ・・・。

参考:『維新土佐勤王史』、『修訂防長回天史』、『続再夢紀事』一、『高杉晋作』、『人物叢書山内容堂』

27  薩長の「鴻門の会」(別題1:周布さんの酔っ払い騒動の巻 別題2:大久保利通、畳を手にのせて回すの巻) 04/2/11
文久2年6月、薩摩藩と長州藩の仲はよくなかった。同月7日、幕政改革をめざす薩摩藩国父島津久光が勅使大原重徳に随従して江戸に到着したが、その前日の6日に、長州藩主毛利敬親が江戸を出立して京都へ向ったことに、薩摩藩が感情を害し、また不信感を募らせていたからである(こちら)。

なんとか融和をと思う長州藩江戸藩邸では、13日、周布政之助・小幡彦七・来島又兵衛が、柳橋の料亭川長で大久保利通・堀小太郎(伊地知貞馨)らと会合を持った。それでも中々意気投合というわけにはいかず、長州藩の他意のないことを示そうとした周布が「もし、他意があれば切腹にしてくれ」と言ったところ、伊地知は膝を進めて「それ切腹せい。検分してやる」と言い返した。その場は、大久保が一喝して事なきを得たが、宴もたけなわになった頃、伊地知の不遜かつ傍若無人な態度にいらだった(酔っ払いの)周布が、今度は、刀を抜いて立ち上がり、剣舞を舞い始めた。伊地知に意趣があることは明らかで、小幡が身を挺してこれを遮ったが、(血の気の多い爺さまの)来島も刀をひきつけて一座をにらみつけた。一方、大久保は畳を引き剥がして掌上で弄び、大力を見せつける(大久保利通・・・そんなキャラだったとは・・・)。結局、この日両者は打ち解けることはなく、融和は失敗した。

当時、この会合を「鴻門の会」と呼んだとそうである。(周布さん、あなた、ほんとに融和するつもりがあったんでしょーか^^;

[鴻門の会:劉邦と項羽が鴻門で会見したこと。項羽の臣が剣舞にことよせて劉邦を殺そうとしたが、項伯がともに舞ってこれを制し、樊かい(はんかい)が怒髪して項羽に対している間に劉邦は張良の計に従って逃れ去った。(大辞林より)]

参考:『修訂防長回天史(第三編上)』←なので、長州視点なのは許してあげてね

その後も薩長の冷戦状態は続き、8月、今度は東下してくる長州藩世子毛利定広の携える大赦の勅諚の文面が薩摩藩を憤激させ、江戸にいた勅使大原重徳が両者融和のために勅諚を改竄することになりますこちら)。このとき長州側で応対したのは桂小五郎。なので、うまくいったのかも・・・周布サンだったら(以下自粛)。なお、大久保のやった余興?の畳を掌で回すワザは、薩摩では「畳踊り」といったそうです。

26  「幕末の京都における筝曲と地唄」光崎検校(byアカリシアさん) 03/12/28
管理人:アカリシアさんの卒論が幕末の箏の奏者光崎検校だったことを伺って、よければお時間のあるとき光崎について教えてくださいね、お願いしたところ、アカリシアさんが快く投稿してくださいました。このたび、アカリシアさんのご許可を得て、遅くなりましたが、余話にUPさせていただくことになりました。アカリシアさん、ありがとうございますm(..)m.

アカリシアさんの2003/02/21の井戸端投稿より

この度、だいぶ以前に書いた卒論の事を書かせていただきます。少々分野が違いますが、幕末の京都が舞台ですので、どうかお許し下さい。

タイトルは、「幕末の京都における箏曲と地唄(光崎検校「秋風の曲」の旋律的分析)」です。 

光崎検校(みつざきけんぎょう)は幕末の京都で活躍した箏(こと)の奏者で、作曲家でもありました。当時、江戸と京都では芸風が違い、箏曲(そうきょく)の世界では関東の山田流と関西の生田流が主流でしたが、貴族の流れを汲む京都文化はより華やかで、現在の流派の多くが生田流です。幕末は世の中が乱れ、その世相が文化・芸能にも影響を与えました。維新後は西洋文化に押されてしまうので、幕末というのは、純粋な日本芸術が乱れ咲く最後の時期でもあったのです。

光崎検校は生没年不詳、「当道」という盲人組織に属していました。当時の名手の殆どが盲人だった為、残された記述や文献は殆どなく、その生涯は謎のままです。通常、盲人達は結婚せず、子孫もなく、花柳界のような血統による世襲制はありませんでした。

光崎検校は箏曲復興主義の先駆者といわれ、古典的な要素を重視しながらも、高低箏の合奏など新たな演奏形態を試むなど、箏中心の音楽性を高めました。その流れはその後、宮城道雄など近代の名手に引き継がれ、その巧妙な技法と雅な表現力は西洋音楽の大御所にもひけを取りません。

また、光崎検校の別の功績は、箏曲の楽譜を大成したことです。現在では楽譜など当然のことですが、当時の組織には「秘伝、口伝」という厳しい掟があり、その掟破りの為、最後は京都を追放されてしまいます。京都から追われるということは、当時では「死」をも意味する制裁でした。その後の行方は不明です。

ふと思ったのですが…、幕末好きの方々が集うこの場に、光崎検校の名を知る方はいらっしゃるでしょうか? 彼の功績を知る方は少ないと思います。幸い彼は偉大な作品を残しているので、今後幾世紀もその名はCDなどに載り、その作品は演奏され続けますが、西洋の音楽家の作品や生涯について学ぶ場は多いのに、邦楽家について学ぶことは稀なのです。故に、箏の名取りや師範でさえ知らないことが多々あり、そうゆう意味では光崎検校も無名に近いのです。

彼もまた、この「泡沫」の場に名を記されるにふさわしい人物ではないでしょうか? 今すぐに外国人に聴かせても高い評価を得るであろう箏曲の礎を築き、人生を掛けて自らの信念を貫き、特異な時代に翻弄された青年だったのですから…。


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