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文久2年4月23日(1862.5.19)
【京】寺田屋事件:薩摩藩、急進派を上意討ち
【京】長州藩久坂玄瑞ら、事件の報をきいて所司代襲撃を中止

【京】文久2年4月23日、寺田屋事件が起りました。

○挙兵組、寺田屋へ終結
23日未明、有馬新七ら薩摩藩士激派は大坂藩邸を脱して魚田屋の同志と合流し、淀川を上って伏見に向いました。真木和泉・田中河内介ら浪士も同様に伏見に向かい、彼らは薩摩藩船宿寺田屋に集結しました。全部で40余名でした。

○島津久光、奈良原喜八郎らに鎮撫を命じる
薩摩藩国父島津久光は激派を説得させるため、前日、奈良原喜左衛門・海江田信義(有村俊斎)・高崎左太郎らに下坂を命じました。彼らが大坂に到着したのは23日朝。すでに激派は藩邸を脱しており、それを止められなかった有馬らの上役永田佐一郎は責任をとって自刃していました。京都挙兵計画を知った奈良原らは急ぎ、京都に戻りました。

申の刻(16時頃)近く、挙兵を知らされた久光は、自身が浪士鎮撫の勅命を受けて滞京中であり、しかも藩士に軽挙を慎むよう重ねて諭告したにも関わらず、それを無視して「暴挙」が行われようとしていることに、激怒したといいます。久光は、小松帯刀・中山中左衛門・堀次郎・大久保利通らに諮った上で、激派と親しい奈良原喜八郎(喜左衛門の弟。繁とも)・道島五郎兵衛・鈴木有右衛門・鈴木昌之助・山口金之進・大山格之助・江夏沖左衛門・森岡善助ら8名を鎮撫使に選び、首謀者を連れ帰ることを命じました。直接説諭するためだといわれています。ただし、久光は、彼らがその命令をきかないときは、臨機応変に処置するようにと命じたそうです。(『維新史』・『島津久光と明治維新) 

<ヒロ>
よく、激怒した久光が上意討ちをを命じたといいますが、『維新史』や薩摩藩研究家の芳即正氏の『島津久光と明治維新』によれば、久光の意図はまず、直接彼らに会っての説得だったようです。ただし、大久保利通の23日の日記では、久光は上意討ちを命じたとなってるんですよね。う〜ん。ちなみに、この日、大久保は4つ(14時ごろ)に仕事を終えると外出し、帰邸は日没前だったというので、18時ごろ(⇒余話)。久光が京都挙兵を知ったときには藩邸にはいませんでした。

○寺田屋事件
夜ニ更(22時頃)、上記8藩士に特に願い出た鈴木有右衛門の家来上床源助を加えた9名の鎮撫使が寺田屋に到着しました。ちょうど、薩摩藩士や久留米浪士らは出発しようとするときでした。奈良原喜八郎らは有馬新七・田中謙助・柴山愛次郎・橋口壮介の4名を階下に呼び出し、君命を伝えて藩邸に戻るよう説得しましたが、有馬らは、中川宮(当時青蓮院宮)のお召しがあるので、その後で藩邸に行く・・・と聞き入れようとしなかったそうです。(『維新史』・『島津久光と明治維新』。『大久保利通日記』では、奈良原らが自刃せよと迫ったことになってるんだけど・・・??)

しびれをきらした道島が「上意」と大声で田中謙助の眉間を斬り、それをみた有馬が道島に斬りかかりました。こうして、親交のある薩摩藩士同士の壮絶な闘いが始まりました。道島と闘っていて剣の折れた有馬が、壁に道島を押し付け、同志橋口吉之丞(壮介の弟)に向って「おいごと刺せ」と命じ、串刺しのようになって道島とともに闘死したエピソードは有名です。結局、挙兵組では、階下に呼び出された4名全員と西田直五郎・弟子丸龍助が闘死。森山新五左衛門と橋口伝蔵は重傷を負い、翌日藩命で切腹しました。鎮撫使側では道島が即死。森岡が重傷、奈良原・山口・江夏・鈴木が軽傷、残り3名は無傷でした。

○奈良原喜八郎、決死の説得
二階にいた人々は、挙兵の準備に追われており、階下の騒ぎをきいても、まさか薩摩藩士同士の闘いだとは思わず、奉行所の討手がやってきたのだと思っていたそうです。そこへ、奈良原が、両刀を捨て、もろ肌を脱いで現れました。奈良原は京都の薩摩藩邸に入るよう説得を試みました。一同は、切腹するとか斬り死にするとかの意見も出てなかなか承服しなかったそうですが、中心人物である有馬が死に、また奈良原に説得された田中・真木も挙兵一時中止を説いたこともあり(一説には奈良原は、明夜、総力を挙げて決行しよう、と田中らを欺いたとか)、奈良原の言を容れ、薩摩藩邸に移ることになりました。(大久保は、抜き身をもった必死の覚悟の激派に対して、喜八郎が刀を捨てて肌を晒して臨み、遂に屈服させたことを「感じ入りに堪えず候」と記しています)。挙兵組は薩摩藩邸に着くと、長屋に分宿させられました。

九つ(24日0時頃)、鎮撫使の一人、山口金之進が藩邸に戻り、有馬らを討ったことを久光に報告しました。久光は「御満足」(『大久保利通日記』)だったそうです。山口は、さらに、残りの藩士・浪人を奈良原が説得しているが、どうなるかわからないので人数を差し向けてほしいと訴えました。そこで、大久保、奈良原喜左衛門、有村俊斎が寺田屋へ向いましたが、途中で挙兵組を護送する喜八郎らに行き会ったそうです。

○長州藩の動き
一方、長州藩の久坂玄瑞・前原一誠・中谷正亮・寺島忠三郎・入江九一・品川弥二郎らは田中河内介邸(留守宅)に集まって所司代襲撃の準備をしていましたが、夜半、寺田屋事件の報をきいて、襲撃を中止しました。

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<参考>
『大久保利通日記』・『維新史』・『島津久光と明治維新』・『大久保利通』(2003.519)

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