9月の幕末」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国開城 HP内検索 HPトップ
前へ 次へ
■薩長融和の勅諚改竄 【江】文久2年8月18日、勅使大原重徳は、薩長両藩の融和をはかるため、大赦の対象から寺田屋事件関係者を削除した改竄の勅諚を長州藩桂小五郎に授けようとしました。 ◆改竄の背景-薩長の対立 東下の道中にある長州藩世子毛利定広(長門守)は大赦の勅諚を携えていましたが(こちら)、勅諚の中に「伏見一挙等にて死失致したる者ども」の語句がありました。大赦対象に寺田屋事件関係者も含まれているのです。このことを知った薩摩藩国父島津久光ら在江戸薩摩藩関係者は憤激しました。彼らにとって、寺田屋事件は浪人鎮撫の朝命を奉じて、主命に反した藩士を殺害したものであり、その処置を朝廷から賞されてもいました。しかし、殺害された藩士を朝廷が赦すということは、殺害を命じた久光に罪責があることになってしまいます。 朝廷は久光の処置を正当とするのか、それとも被害者(殺害された藩士)を冤罪とするのか・・・久光らは、<朝廷による賞罰は重大であり、軽々しく行うものではない。処置が公明正大でなければ国家は維持できない。これは長州藩が己の責を塞いで己の功を顕そうとするから起ったものでしかない>と、京都に使者を派遣して「伏見一挙にて〜」の部分を削除させようと運動させました。同時に、江戸でも勅使大原重徳に勅諚改竄を説いていました。 ◆桂小五郎の反応 大原重徳(左衛門督)は、薩長両藩融和のため、独断で勅諚を改竄することを決め、この日、長州藩桂小五郎を呼び出して、<昨夜京都から知らせがあり、伏見云々の十六文字を削ることになった>と、改竄した勅諚を授けようとしました。しかし、桂小五郎は在京の藩主敬親(大膳大夫)に改竄の沙汰が下るまでは勅諚の伝宣は見合わせるべきだとして、受領を辞しました。大原は京都の中山・正親町三条・野宮の三者に書簡を送り、改正した勅諚を授けるよう促しました。 参考>『徳川慶喜公伝』(2003.4.22) 関連:■開国開城「勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■テーマ別文久2年:「長州藩世子毛利定広の大赦奉勅東下」「薩長融和の勅諚改竄」 ■薩摩藩日誌文久2 ■長州藩日誌文久2 |
|