7月の「今日」  幕末日誌文久2 テーマ別日誌 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年6月6日(1862.7.2)
【江】長州藩主毛利敬親、江戸出立。
【江】老中板倉勝静、松平春嶽に京都からの密書をみせる
【京】清河八郎、水戸浪士に横浜攘夷をさせるため、京都を出立

■長州藩
【江】文久2年6月6日、長州藩主毛利敬親が江戸を出立し、京都へ向いました。

<ヒロ>
先に長州藩は幕府の許可を得て世子定広を西上させていました(こちら)。また、長州藩には勅使大原重徳東下の際には薩摩藩と協力して尽力するようにとの朝命も下っていました。しかし、長井雅楽の謗詞事件が起り、弁明の必要を感じた敬親は、上京の許可を願い出ており、5月28日にその許可が下りたばかりでした。

敬親の出立は実に勅使大原重徳の江戸到着の前日でした。しかも、一行中山道を西上しました。まるで東海道を大原と東下してくる薩摩藩国父島津久光を避けるような出府でした。『維新史』では敬親の行動を「久光に代って、京都に於いて画策する所あらんとしたのであった」と解説しています。実際、久光不在の間、京都政局は長州が牛耳っていくことになります。

この一件により、薩摩藩は長州藩に不信感をもち、両者は険悪な関係となります。長州藩邸は融和をはかろうとし、10日、13日と周布政之助らが大久保利通らと会合を持ちますが、失敗に終ります。→「余話」「薩長の「鴻門の会

関連:■開国開城「文1:長州の国政進出:航海遠略策」 「文2:長州藩論一転・破約攘夷へ」■「長州藩日誌文久2」
参考>『徳川慶喜公伝』2・『維新史』三(2002.7.2)

■勅使東下
【江】文久2年6月6日、老中板倉勝静が松平春嶽に京都からの密書を見せました。

「再夢紀事」によれば密書の要点は以下の通り。

(1) 天皇はただ平穏を願っている(「叡慮唯平穏の思召」)
(2) 中山忠能が何か陰謀を企んでいる(「中山殿の女なる皇親王(=睦仁親王。のちの明治天皇)の御母儀(=中山慶子)を皇親王へ被附威権衰へ中山殿失意よりして何か陰計之有」)
(3) 中山が薩摩藩に通じて今度の事件(=勅使東下?)となり、天皇は不快に思っている(「中山殿より(←旧字)薩へ交通し今度之事件ニ及ふ故此邊惣而宸襟不穏」)

■春嶽の総裁職就任
【江】文久2年6月6日、越前藩邸では、前日福井から到着した家老本多飛騨・松平主馬、奉行長谷部甚平、目付村田氏寿(巳三郎)らを交えて、春嶽の進退を評議しました

関連:■「開国開城」>「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」 ■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」■越前藩日誌文久2
参考>『再夢紀事・丁卯日記』(2003.7.2)

■清河八郎
【京】文久2年6月6日、水戸浪士に横浜攘夷を実行させる計画を胸に抱き、清河八郎は京都を出立しました。(「潜中紀事」)

関連:■清河/浪士組日誌文久2年@衛士館 ■「衛士覚書」浪士組と水戸藩(1)清河八郎と水戸激派の密接な関係
参考>『清河八郎遺著』』(2003.7.2)


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