1月の「今日」 幕末日誌文久2  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年11月13日(1863.1.2)
【江】攘夷奉勅:鳥取藩主池田慶徳、後見職一橋慶喜に攘夷入説
【江】長州藩士、横浜襲撃を中止/
【江】蒲田梅屋敷事件(1)長州藩周布政之助、容堂を誹謗/

■攘夷奉勅vs開国上奏(慶喜、2度めの登城スト)
【江】文久2年11月13日、因幡鳥取藩主池田慶徳(相模守)は後見職一橋慶喜(辞表提出・登城スト中)に攘夷を入説しました。慶徳は、<攘夷をできないなどと、先人(父親の烈公斉昭)の霊にも申し訳が立たないではないか。このようなことではもはや兄弟ではない>など言って迫ったようです。(慶徳は慶喜の異母兄です)

<ヒロ>
朝廷の攘夷の勅旨に対して幕府はどう対応すべきか、国是確立をめぐってここ数ヶ月政局は揺れていました。幕議は一時は慶喜の「幕府をすでになきものとみる」開国論(こちら)を容れて開国奏上に決まりました(こちら)が、山内容堂の[攘将軍となりかねない」との入説(こちら)で、10月20日、攘夷奉勅に一転しました(こちら)。慶喜はこのとき反対こそしなかったものの、22日h、自分には定見がないとして後見職辞表を提出し、登城を停止しました(こちら)。その後、春嶽らの説得で登城を再開しましたが、勅使到着、幕府の攘夷奉勅決議(こちら)と進むうちに、再び辞職を決意し、11月10日、病と称して登城を停止していました(こちら)

一方、池田慶徳は朝廷から攘夷周旋の内命を受けて出府しており、春嶽からも慶喜を説得するよう依頼されていました(こちら)

■長州藩士の横浜襲撃計画
【江】文久2年11月13日、横浜襲撃を計画していた長州藩士11名は、世子毛利定広の説得で襲撃を中止しました

この日の未明、前土佐藩主山内容堂(幕政参与)から長州藩士11名(高杉晋作・久坂玄瑞ら)の横浜襲撃計画を知らされた世子毛利定広は、藩士数名に11名の後を追わせるとともに、寺田屋事件の二の舞を防ぐために自ら出馬しました。神奈川に宿泊していた11名は、後を追ってきた藩士に説得されて世子の待つ蒲田梅屋敷に向い、世子から直接説諭されて「大いに恐縮して謝罪」(『続再夢紀事』)し、襲撃は未然に阻止されました。

<ヒロ>
高杉らが襲撃を中止した理由には、計画を伝え聞いた別勅使三条実美・姉小路公知も諫止の書簡を送ったこともありましたし、『高杉晋作』(奈良本辰也)によれば、「どこから嗅ぎつけたか、幕府の守備兵までがあたりを警戒し始めている」のもあったようです。幕府が守備兵を配置させたのは容堂の報告の結果でしょう。この日、登城した容堂は<昨夜、長州藩士の外国人襲撃計画を聞いたままに春嶽殿に内報したが、今朝、高崎猪太郎が来て、彼らは同夜すでに藩邸を脱して横浜に向ったと報せてきた。高崎によると襲撃の理由は「廟堂の旧に依りて因循なるは畢竟世子始め重臣等の周旋緩慢なればなり。此上は我々より事を起す外に術あるべからず。されば十四日の日曜に外国人等の遊歩するを窺いミニストル(公使)を一撃に打斃し、首を世子の面前に出して因循の眼に一驚を興うべし」である。高崎は即刻神奈川へ行き、諫止するので、もし、幕府が外国奉行等を派遣するのであれば、現地で事情を説明すると言い残していった>と告げており、驚いた幕閣は、外国奉行竹本隼人正・目付沢勘七郎を横浜に急派しています。

関連:文久2年11月12日(1863.1.1):薩摩藩高崎猪太郎(五六)、山内容堂に長州藩士横浜襲撃計画を告げる
***
■蒲田梅屋敷事件(周布政之助による山内容堂誹謗事件)vs
【江】同日、長州藩士周布政之助が酔った勢いで前土佐藩主山内容堂を誹謗し、土佐藩士が激昂しました。

さて、世子定広の説諭で襲撃を中止した高杉らは、蒲田梅屋敷で酒肴が出され、説得のためにやってきた土佐藩や勅使の使者とともに飲んでいました。そこへ馬を走らせて現れた周布政之助が酔った勢いで容堂のことを誹謗し、土佐藩士を激昂させるという事件が起きました。その場は高杉・久坂の取り成しで収まりましたが、翌14日に土佐藩士が周布引渡しを求めるという騒ぎに発展していきます。

<ヒロ>
実は、この事件の背景には、容堂と周布(&長州藩急進派)との(酒がらみの)ちょっとした確執がありました。容堂は開国論ながらも攘夷入説に勅使優待にと奔走して頑張ってるのに、長州の急進派の皆さんには手ぬるいと思われたようで・・・。まぁ、容堂も周布も酔っ払いおやじならではの逸話なのですけど^^。

(関連:「余話:長州と土佐の酔っ払い王対決!」)。

なお、奈良本氏は、周布が酒を飲んで暴言をするにいたった「やりきれない心情」をこのように解釈しています。「晋作というやつはいろいろな問題で自分に迷惑ばかりかけ、ようやくここまでとりなしてきたかと思うと、またこの始末なのだから。しかも政局は、藩の方向転換、幕府の「破約攘夷」の勅旨奉戴と、急速に好転しつつあるときではないか。なんと叱りつけてよいかわからぬうちに、つい鉾先きが土佐藩に向いてしまったのである」(『高杉晋作』)

参考>『続再夢紀事』・『昔夢会筆記』・『維新土佐勤王史』・『高杉晋作』(中公新書)、『山内容堂』(吉川弘文館)(2002.1.2)


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