1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

前へ   次へ

文久2年11月25日(1863.1.14)
【江】フランス軍艦が大坂入港して条約勅許を迫るという風聞を根拠に
老中、容保と旗本精鋭の急西上と慶喜・将軍の率兵上京を上書
【江】)会藩外島機兵衛、京都町奉行永井尚志との共同意見として
大目付岡部長常に対し、慶喜と重職の早期上洛を訴える。
【江】老中格小笠原長行ら、慶喜に登城を説得
【江】幕府、水戸藩に激派林忠左衛門らの放免を命ずる

■幕府の京都武力制圧策
【江】文久2年11月25日、老中板倉勝静と老中格小笠原長行は、将軍家茂に対して、フランス軍艦が大坂入港し、朝廷に直に条約を迫るという風聞を根拠に、京都の守衛を強化するための守護職松平容保と旗本精鋭の急西上と後見職一橋慶喜・将軍徳川家茂の早期率兵上京を願う上書を提出しました上書全文はこちら)

驚いた将軍は(この日?)相当の処置を取るよう命じたそうです。(この日?)容保はまず四隊を28日から順次出発させることに決めて、藩士に親書を与えて訓戒しました。(訓戒書全文はこちら)。 

<ヒロ>
突然でてきた?率兵急上洛。京都警衛を名目にしていますが、武力制圧計画だともいえます。幕府にとっては重要な政策決定です。なぜか、11月25日付『続再夢紀事』にはこの重要な一件は記されていないのです。両老中(格)が越前藩には内密に、幕議にもかけずに直接将軍に上書をしたのでしょうか(単に『続』から漏れているだけかもしれないけど)。『続再夢紀事』によれば、春嶽がこの話を知ったのは28日、慶喜からで、フランス軍艦を理由に率兵西上を考えているがどう思うかと意見を聞かれるかたちでした。慶喜のこの動きは老中の上書を基にした将軍の指示に沿ったものではと思うのですが、慶喜はそのことについて触れなかったようです。実は、春嶽はこのとき、京都において薩摩藩島津久光と連携することを考えていました(こちら)。ことに、横井小楠は、久光父子に上京を促し、江戸からは春嶽・容堂が上洛して、公武一和の国是を決めようという意見でした(これが、のち幕薩連合による公武一和策となります)。。そのことを察した板倉・小笠原-慶喜が春嶽の動きをけん制するために、早期率兵上洛を持ち出したのかも・・・?上京メンバーに春嶽・容堂が含まれていないのも意味深な気がします。(もちろん、勅使の携えてきた親兵設置の要求に対するけん制でもあると思いますが)。

それにしても、これが、春嶽の薩摩藩との連携あるいは勅使の親兵設置要求へのけん制だったとしても、容保には台命を伝えて春嶽はかやの外というのは、ちょっとありえないような・・・。(『七年史』にも日付の誤記がときどきあるので、時間のあるときに『藩庁記録』とつきあわせてみますね)。

ところで、老中の意見が将軍に容れられる・・・これって、当然のことにも思えますよね。でも、実は、先日安政の大獄の追罰で講武所奉行を罷免された大久保一翁が側用取次を務めている頃はそうではなかったようで、このことが板倉・小笠原-慶喜が一翁の側用取次罷免を決めた理由の一つに挙げられているくらいでした(こちら)。(『続再夢紀事』は諸有司の嫉みが理由だとしています)。もし、一翁が在職であれば、春嶽・小楠寄りだったのでは思いますし、板倉・小笠原の意見は将軍に容れられなかった可能性も???

また、この上書中の旗本精鋭を西上・・・というアイデアはその後の京都見廻組結成につながっていく気がします。

参考:『七年史』(2004.1.14)

***
【江】同日夜、会津藩外島機兵衛が大目付岡部長常を訪ね、町奉行永井尚志との共同意見として、慶喜以下重職の急西上を求めました。

外島機兵衛は閏8月に京都守護職に任命された藩主松平容保に先遣隊として京都に派遣され、京都の情勢を探っていました。(その結果が三港外閉鎖の建言勅使優待の申入れでしたが、幕閣からよい反応は得られませんでした⇒テーマ別)。

さて、岡部を訪ねた外島は京都の形勢について「大に憂痛する所」があり、町奉行永井尚志と話し合ったところ、永井も同感で、「此上は一橋公を始め重職の方々速に出京ありて周旋せられるべからず」との意見を言い含めたため、出府してきたとのことでした。岡部が情勢の大略について尋ねたところ外島は以下のように説明しました。
  1. 近来、関東の勢力は日を追って「退縮」し、朝廷と所司代以下諸有司との間が「全く隔絶して事情一切貫徹せず」、これらの職はほとんど、あってなきのごとくである。
  2. これに反して、外様藩の勢力は日を追って「隆盛」になり、「微細の事情までも意の如く朝廷に貫徹し」、無位無禄の島津久光に守護職の沙汰が下るなど「実に言語に絶したる次第」である。
  3. 久光の守護職任命は、長州藩・朝廷の一部にも不服があるが、「三郎(久光)の守護職は勅命ゆえ重く、会津の守護職は幕命故軽きの観」がある。
外島は、このような形勢になったのも、朝廷が従来幕府の朝旨尊奉の薄さに長年憤慨してきた上に、外様藩は「専ら慇懃を尽」すので、親交が深くなったのだとの見方を示し、この際、一橋慶喜を始めとする重職一同が速やかに上京し、誠意を以て朝廷を尊崇せねば、もはや「天下の四分五烈」に至るときも遠くはない、と主張しました。

翌日、登城した岡部は幕議にこのことを告げますが、諸有司は驚愕あるいは憤激し、「外藩人の為めに意のごとくせられては一日も猶予すべき」ではなく、速やかに重職一同上京し、殊に慶喜・春嶽・容保・容堂は汽船に乗って10日以内にも出発すべきである、との評議になったそうです。

<ヒロ>
同じ日に慶喜らの早期上洛を求める提案が老中から将軍に、そして会津藩士から大目付に。これって偶然なんでしょうか?もっとも、外島からの提案は、「外様藩」の隆盛を抑えることが目的で、もっといえば、朝廷の外様&無位無官の久光の守護職任命の沙汰(こちら)に憤激した会津藩が、薩摩藩の勢力を抑えることをもくろんだものともいえそうです。

さて、幕政参与である容保は自身が幕議で提案することも可能なはずです。なのに、なぜ家臣の外島機兵衛が大目付岡部長常に提案することになったのでしょうか。容保は、先日、勅使優待の件をいきなり幕議に持ち出し、老中板倉勝静の猛反対を受けるということがありました。これでこりたので、今回は根回しというワザを使ったのでは?と想像するのですが。また、春嶽はこの提案を翌日、岡部から聞かされますので、春嶽への事前の相談はなかったようです。7月26日の会津藩と越前藩の会盟はどうなったんでしょうか〜^^;。もしかしたら会津藩は、この頃、(守護職をめぐって敵視している)薩摩藩と接近している越前藩に不快感をもっていたのでしょうか?(憶測)

両老中の上書との関係も含めて探究したら面白そうなのですが、眠いので、このへんで。時間のあるときに、いろいろ資料をみて整理してみたいです(こればっかり^^;)。

参考:『続再夢紀事』一・『七年史』(2004.1.14)

関連■テーマ別文久2:「京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議」 「久光の守護職就任(会津VS薩摩)」薩摩藩日誌文久2年 ■開国開城:「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」
残りは時間ぎれです〜。またの機会に・・・。


前へ   次へ

1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ