[AM11:40 診療所]
「……もう、古い話ですが」
俺は、そう話し出した。
「俺には親友がいました。明るくて人懐っこくて、仲間には優しくて……いいやつでした。少なくとも、俺はそう思っていました。でも……ある日、そいつの犯罪行為を見てしまったんです」
「犯罪行為って……万引きとかか?」
「微妙なニュアンスは違いますが、そのようなものです。ある仲間が大切にしていた物を、そのとき持っていた別の仲間が気絶している間に奪ったんです。買えば20万くらいする物でした」
「おいおい、それはかなりまずいんじゃないのか?」
「ですね。……どうやらその現場を見たのは俺だけのようでした。俺は当然、それはただの出来心で、やつなら必ずすぐ我に返って持ち主に謝罪してくれるものと信じました。しかし……」
「謝罪しなかった、と」
「はい。しかも、自分のやったことをごまかすように、その別の仲間を心配するふりをしたり、その後は何事もなかったように笑ってばかり……かなり小賢しい振る舞いを始めたんです。後悔など、まるでしていないようでした。盗んだ物を返すことさえありませんでした」
「ひどいな。しかし、それなら素直に白状するように勧めてやるとか、お前にできることもあったんじゃないのか?」
高遠先生は至極当たり前のことを言う。そんなことは俺だって考えたさ。
だが……。
「……できませんでした」
俺の声は、寂しく室内を走った。
「できなかった……?」
「信じたくなかったんです。あんな、誰よりも素直そうで、誰よりも友情に厚そうなやつが……」
……俺は、思い出していた。
青い海をバックに、悲しみの風が流れた日。
あの日、俺にできることはふたつあった。
あいつの本性を認め、償わせるために忠告する。
あいつを信じ続け、良心の目覚めに賭ける。
そして俺は、後者を選んだ。
思い起こせば、遠い分岐点……そこでの選択が間違っていたのかどうかは、俺にはわからない。
ただ、結果的に、やつの良心が目覚めることはなかったというだけだ……。
あれから、3年。
その間に、俺はこう考えるようになっていた。
人は誰しも、やましい一面を持っている。穴を掘るようにその細かい部分まで見つめるのは、そうする方が悪いのではないのか。
だから俺は、人に干渉したり、人を観察することをやめてしまった。
やつが仲間だということも、なるべく考えないようにした。
親友に値しないやつだと思うことで、自分には無関係だと信じ込もうとした。
確かに、悪いのはやつだけで、俺は無関係だ。
だが……過去は俺の心にしっかり傷として残り、3年経っても消えようとはしない。
なぜか?
……答えはひとつ。
俺が、そういう人間だからだ。
一度信じたものは、どこまでも追いかけていきたくなる……そういうやつだからだ。
それが俺らしさ。決して、偽ることはできないのだ。
信じたことで、どれだけ深く傷ついたとしても……。
「……なるほど。そういうことがあったわけか」
俺の詳しい説明を聞いた高遠先生は、静かにつぶやいた。
「本当は、今でもそいつを親友だと思いたいんだな?」
「はい。しかし、その気持ちにも揺らぎがあるようなないような……」
「ないだろう」
先生は言い切った。
「お前は『分岐点』という言葉を多用して話したな。それを借りるが、お前はその事件以降にも多くの分岐点を迎えたはずだ。選択肢もたくさんあったと思う。そいつに真実を語らせる、20万の本来の持ち主にこっそり話しておく、心を凍らせて交流をすべて断ち切る……。だが、お前は3年間、決してそれらを選ばなかった。それは、答えがはっきりと決まっていたからではないのか?」
そうだ……その通りだ。俺は無言でうなずいた。
「そいつも、いつの日か悔いるかもしれない。そのときは自分が味方だと名乗り出てあげなさい」
「そうですね……」
俺は細く笑った。それは、本当に久々の「心からの笑顔」であるように思えた。
……手術室のドアが開き、獣医が出てきて、ダンデライオンは命には別状ないと告げた。
「よかった……」
「ああ。長瀬、お前はもう帰っていい。休養日にひっぱり出してしまって、すまなかったな」
「いいえ。……つらいですが、とてもいい時間を過ごせました。ありがとうございました」
俺は言って、椅子から立ち上がった。