[AM11:40 五十嵐雅生厩舎・大仲部屋]
「おお、できたかできたか」
厩舎のスタッフたちが続々と大仲に集まってくる。それを眺めながら、私はエプロンを外した。そして、そろそろ寮へ戻って出かける仕度をしようと、自分のバッグを取る。
「……ん? お前、自分で作ったの食わんのか?」
人数分の器を棚から取り出そうとしていた五十嵐先生が、ふと私を振り返ってたずねた。
「ええ。ちょっと用事があって、出かけるんです」
「そうか。気をつけて行ってきなさい」
五十嵐先生はまじめだ。こんなとき「デートか?」とでも聞いてくれるような先生だと、こっちも楽しいんだけど。
「はい。それじゃ、行ってきますね」
私は答え、何を着ていこうかな……なんて考えながら厩舎のドアに手を伸ばした。
そのとき。
「あ、携帯……」
私のポケットの中で着メロが鳴った。慌てて携帯をひっぱり出してディスプレイを見ると、そこには……。
『篠崎剛士』!
すぐに通話のボタンを押し、耳に当てる。
「はい。篠崎くん? どうしたの?」
どうしたの、と聞いてはみたが、何となく予感はしていた。きっと、片山くんに誘われたからさっきの約束はなかったことにしてくれ……という話だ。
『いや、実は……今厩舎に誰もいなくて、留守番しなきゃいけなくなっちゃったんだ。あと1時間くらいしないと、誰も帰ってこないらしい』
ところが、違った。片山くんはまだ篠崎くんのところに行っていないらしい。いくら積極的な人でも、やっぱり普段から避けられてばっかりの相手だと出足が鈍るのかな。
「そうなの……」
私は、答えながら考えていた。
篠崎くんは厩舎の留守番を1時間。この時間差を何とか上手く使って、誰もがっかりしない形に持っていけないかな……。いい考えが、浮かびそうで浮かばない。
『ああ。だから……』
「大丈夫。いくら私が短気だって、それくらいは待てるわよ」
また今度にしてくれ、と続きそうだった彼の言葉を、私はさえぎった。やはり、それは聞きたくなかったのだ。
『えっ……』
彼は意外そうな声を出した。……そういえば彼は、海に誘われたとき私がためらったのを、拒絶反応だと解釈したみたいだった。
「あのね、篠崎くん。言っとくけど私、いやなんじゃないのよ。今だって、何着てこうかなーなんて考えてたところだったんだから」
だから私は、正直にそう言った。
『……本当に?』
「もちろん! あなたのお誘いなら、いつでも何があっても最優先よ!」
本当に、最優先だった。彼自身の誕生日パーティーよりも。
すると……。
『桂木さん……ありがとう』
……その言葉は、何よりも嬉しかった。
片山くんや長瀬くんから彼を奪おうとしているのに、この言葉が聞けるならそれでも構わない……本当に、自分勝手だと思う。でも、これはどうにもならないことなんだと覚悟した。彼らも、いつか誰かに恋をしたときにわかるかもしれない。……私は、そんなことを考えて自分に言い訳した。
『そうだ。それなら、君だけひとりで先に、あの海辺に行っててくれないかな』
そのとき篠崎くんは、突然そう言った。
「え……どうして?」
わけがわからない。
『一緒に出かけるところを見られたりしたら、誤解されるとか、いろいろ不都合もあるだろうし。もちろん、できる限り早く追いかけるし、例えどんなに遅くなっても必ず行くから』
……不都合なんかないから、一緒に行きたい。それが私の気持ちだった。でも、これは彼が私のために敷いてくれた道。それを受け止めないなんて、恋する女として失格な気がする。
「うん……わかった。来てくれるまで、ずっと待ってるからね」
だから、その想いを伝えるように、私はできるだけ柔らかく言った。彼のためなら、ひとりであの海岸に行って待つのだって苦にならない。
『ありがとう。それじゃ……』
最後にもう一度嬉しい言葉を繰り返して、篠崎くんからの電話は切れた。
例えどんなに遅くなっても必ず行く、と言ってくれた篠崎くん。その言葉を、頭の中で何度も繰り返してみる。
どんなに遅くなっても……?
あっ……!
私は突然気付いた。待ち続けていた「誰もがっかりしない形」にいつしかなっていたことに。
私が先に海に行く。篠崎くんは1時間の留守番の間に、きっと片山くんからお誘いを受ける。いくら片山くんが苦手だって、長瀬くんが今日のためだけに戻ってきてくれたと知れば、篠崎くんもパーティー参加を選ぶだろう。私はすでに片山くんに「不参加」を伝えてあるから何の問題もない。3人で楽しんでもらい、私は篠崎くんの言葉を信じて、彼がパーティーを終えて海辺に来てくれるのを待てばいいのだ。
「そうよ! これよ! よかった……!」
つい、口に出して言っていた。
誰かを傷つける結果にならなくてよかった。私もこれからは、もっと考えてから行動しなきゃ。
「……桂木?」
と、豚汁を口に運びながら、五十嵐先生が私の声に反応した。
「あ……すみません。じゃ、改めて行ってきますね」
何となく恥ずかしかった私は、急いで厩舎を出た。
「……あ! 俺、星ニンジン当たり!」
そんな、厩務員さんのひとりの声に送られながら。