[PM0:00 東屋雄一厩舎・外]
……20分後。
結局、俺は特に作戦を練ることもなく東屋厩舎へやってきた。これ以上卑怯なことをしたくなかった、といったあたりが真相かもしれない。もっとも、そんなかっこいいものではないが。
東屋厩舎のドアを前にして、もしここに篠崎がいなかったらどうしようと考えた。ほっとするか、がっかりするか……自分の気持ちがどっちに傾くのかさえ、想像がつかない。
でも、だからといって何もせずに帰るわけにもいかない。
よし……。
俺は、勇気を出してそのドアをノックした。
「はい、どなたでしょうか」
なんと、俺のノックに返事をしたのは篠崎本人だった。焦る暇もなくドアは開けられ、そこから声の主が顔をのぞかせる。
「よう、篠崎!」
俺はとりあえず手を挙げて笑いかけたが、そうする間にも、みるみるうちにやつの表情は曇っていく……。
その顔から視線をそらすと、自然と厩舎内の大仲部屋が目に入った。ざっと見たところ、誰もいないようだ。
「なんだ、お前しかいないのか」
「……何か用か?」
仕方なしといった感じではあったが、やつはそう聞いてくれた。俺は、なるべく楽しく友好的に話を進めることにした。
「何か用か、はないだろ。こういう物、持ってきたのにさ」
俺は、持ってきたプレゼントの袋を差し出した。
「ああ……ありがとう」
素直に受け取る篠崎。だが、こいつのことだ。もし今日が誕生日じゃなかったら受け取らなかったことだろう。俺は、人が誕生日を選んでプレゼントをする理由がわかったような気がした。とりあえず、突き返されないからだ。
「開けても、いいか?」
「いいともいいとも」
もちろんいい。中身にはちょっと自信があるのだ。
篠崎は袋を開け、中身を取り出した。こいつが一番好きな色、マリンブルーのダンガリーシャツだ。
マリンブルー……海の青さ。それは、俺にとっては最悪の色とも言える。ある意味ではこいつにとっても。それなのにこれを「一番好きな色」と言い続けているのは、こいつが見かけによらず意地っ張りだからなんだろうか。
「どうだ? 珍しいだろ、こういう色のダンガリーって。見つけた瞬間、こりゃお前にやらなきゃウソだ、って思ったんだ」
「それはどうも」
少しだが、篠崎の表情がやわらいだように見えた。……よし、ここは明るく行こう。
「ところで、他の連中からは何もらったんだ? 真理子ちゃんは?」
「別に」
「隠さなくたっていいじゃないか」
「……桂木さんはなぜか野球のバット。長瀬は北海道からカニとホタテ送ってきた」
「何、カニにホタテ? 長瀬のやつ、俺のときも同じことしたぞ。でもあれうまいよな。余るようなら俺がもらってやるけど?」
「余らない。厩舎のみんなで食べるんだ」
どうも話がかみ合わない。どうすれば、ごく普通に話せるようになるんだろう。
それとも、そんなことはもはや不可能なのか……?
……って、俺はこんな話をしに来たんじゃない。
「あ、そうだそうだ。本来の目的を忘れるとこだった」
よし、いよいよ言うぞ。
「実はさ、是非お前を連れていきたい店があるんだ。ちょっとつきあえよ」
ところが。
「行かない」
……篠崎は、考える素振りさえ見せずに俺の好意を踏みにじった。これには、さすがの俺も頭に来た。
何だか知らないが、そこまで俺を嫌う理由がどこにあるんだ。……実際にはあるが、こいつはそれを知らない。それに、こっちにだって考えがあるのに、こいつの気まぐれでそれを無駄になんかできない。第一、主役を欠席になんかできるものか。何としてでも店まで連れてってやる。そこで俺たちの計画を知れば、こいつだって笑うはずだ。
俺はそう思って、言葉を探し始めた。いくら頭に来てても、腕ずくでひっぱって行こうとすればこいつは意地になる。穏やかに言うべきだ。
が、どう言っても強引になるかわざとらしくなるかのような気がした。
どうしよう……と考えたとき、視界の端で篠崎が動いた。見ると……引き戸に手をかけている!
「おい、ちょっと待て!」
俺は負けじと同じように手をかけ、一気に全開にした。閉めようとして負けた篠崎は、不満そうに俺を見る。
「……お前な、どうしていつもそんななんだ? 俺の何が気に入らない? 俺がいったい何をしたっていうんだ? 答えろよ!」
……そんなつもりはなかったのに、気付けば俺は声を荒らげていた。
こんなのは、俺に言えるセリフじゃない。それはわかっている。「俺がいったい何をした」なんて、もし俺自身の他に事情を知っているやつがいたとすれば、よくもそんなことが言えるな、と非難されて当然の言葉だ。
でも……それでも、言ってしまった……。
「お前は、ぼくをあっちこっちひっぱり出そうとしすぎるんだ。要するにおせっかいなんだよ。四六時中貼りついてられる方の身にもなってみてくれ」
「真理子ちゃんなら、四六時中貼りついてても文句言わないくせにさ」
俺はもう、自分をコントロールできなくなりつつあった……。
「なんでここで桂木さんが出てくるんだよ」
心をごまかすために、俺はしんみりした口調を作って言った。
「なあ……俺たち仲間だろ? 友達だよな? 競馬学校の頃から、一緒にがんばってきた仲じゃないか。それなのに……」
そのぼやきは、本心でもあった。でも、その「本心」さえも本当は作り物で、自分の古傷をかばうための盾にすぎないのかもしれない……。
俺には、わからなかった。
……?
そのとき俺は、とんでもないことを思いついてしまった。
「わかったぞ。なんでお前が真理子ちゃんだけ受け入れて、俺だとそんな顔するのか」
……言うな、伸! それは言うべきじゃない!
「それは、お前が彼女のことを好きだからだ」
「な……!?」
「違うか? 違わないだろ。彼女に構ってもらいたいお前は、同じように干渉してくる俺が邪魔なんだ。だから俺だけ遠ざけようとする」
「……」
……やめろ! これ以上何も言うな!
「好きになったのはいい。誰だって恋はする。だけど、弱いふりして彼女の同情引こうなんて、考え方が卑怯だと思わないのか?」
「何だと……」
……よ……せ……。
「お前はあの日……海で溺れたときから、何も変わっちゃいない。ブローチを拾えなかったことは、彼女だってもう許してるはずだ。それなのに、あれから3年間も同じことで悩むふりして、何かあるたびに彼女の優しさに甘えて……」
「お前なんかに何がわかる!!」
……篠崎の右手が一撃を放ち、俺の左頬に命中した。
その場にうずくまった俺は、顔を上げようとして、視界の不鮮明さに気付いた。
俺は、泣いていた。
心の痛みで……。
「ああ、そうだよ! ぼくは彼女が好きだ! でも、だからどうだっていうんだよ! お前には関係ないじゃないか! それに、昔のことなんか言われたくない! ぼくは……ぼくはあの日から、お前みたいな軽薄なやつにはわからない苦しみを抱えたままなんだ! そんなことも感じ取れないやつは仲間でも何でもない! 帰れよ!!」
……分厚いドアが、俺と篠崎を遮断した。
が、俺はそれでもその場にうずくまったまま動けなかった……。
篠崎も、彼女のことが好きだった。
俺の恋心の行き場は、もはやどこにもなくなってしまった……。
実に、罪人の末路に相応しい幕切れだ。もし3年前に今日という未来が見えていたら、俺は罪を犯さずにすんだだろうか……そんなことを考えるのも、また愚かなんだろう。
俺は、そっと顔を上げた。
……晩夏の風は、痛かった……。