[PM0:00 東屋雄一厩舎・大仲部屋]
出かける仕度を終え、大仲部屋の椅子に座って誰かの帰りを待っていたとき、入口のドアがノックされた。
誰か戻ってきたのかとも思ったが、ここのスタッフならノックはしないだろう。来客らしい。
「はい、どなたでしょうか」
言いながらぼくは立ち上がり、その客を迎えようと、ドアの前に行って開けた。
ところが。
「よう、篠崎!」
そこに立っていたのは、呑気そうに手なんか挙げて笑っている片山だった。
「なんだ、お前しかいないのか」
「……何か用か?」
こいつは苦手だが、来た以上は何もせずに追い返すわけにいかない。それに、何か重要な用事かもしれないのだ。ぼくはそう聞いてやった。
「何か用か、はないだろ。こういう物、持ってきたのにさ」
そう言って片山が見せたのは、どこかの服飾ブランドの袋だった。隅に青いリボンがついている。なるほど。
「ああ……ありがとう」
先月3日のこいつの誕生日に何もプレゼントしなかったのが今さら気になったが、それだけ言って受け取った。
「開けても、いいか?」
「いいともいいとも」
実に愛想のいいやつだ。ぼくはそんな片山に従って、袋を開けた。
中身は、深い海の色をしたダンガリーシャツだった。一応ぼくの好みは理解しているようだ。この色に込められた後悔の深さはわからないだろうが、それはそれでいいし、知られたくもない。
「どうだ? 珍しいだろ、こういう色のダンガリーって。見つけた瞬間、こりゃお前にやらなきゃウソだ、って思ったんだ」
「それはどうも」
「ところで、他の連中からは何もらったんだ? 真理子ちゃんは?」
……いつもの、何でも知りたがる癖が始まった。これがいやなんだよな、ぼくは。
「別に」
「隠さなくたっていいじゃないか」
「……桂木さんはなぜか野球のバット。長瀬は北海道からカニとホタテ送ってきた」
「何、カニにホタテ? 長瀬のやつ、俺のときも同じことしたぞ。でもあれうまいよな。余るようなら俺がもらってやるけど?」
「余らない。厩舎のみんなで食べるんだ」
……毎回思うことだが、こいつほどしゃべっていて楽しくない相手も珍しい。桂木さんによると、ぼくがAB型でこいつがA型、根本的に相性がよくないらしい。もちろん、友好的な彼女は「でも仲よくしてね」と言うことを忘れなかったが。
「あ、そうだそうだ。本来の目的を忘れるとこだった」
などと思うそばから、片山はひとりで話を進めていく。
「実はさ、是非お前を連れていきたい店があるんだ。ちょっとつきあえよ」
「行かない」
当然、ぼくは即答した。
第一に、桂木さんとの約束がある。
第二に、ぼくはこいつが苦手だ。
第三に、こいつの勧めでどこかへ出かけるとろくなことがない。何ヶ月か前も、いいレストランを見つけたと言って半ばむりやりにぼくをひっぱり出し、結局夜中まであちこちの店を引きずりまわしたのだ。寮暮らしのこいつと違って、厩舎暮らしのぼくには門限がある。それを破って東屋先生にひどく怒られた上に、翌日すごい寝不足で仕事もろくにできなかった。
これだけの条件がそろっているのだ。絶対に行くものか。
片山は何やら考えているらしく、ぼくが「行かない」と言ってからは黙っている。間隔こそ1メートルないが、やつが立っているのはドアの外、ぼくは中。それに気付いたぼくは、このスキにドアを閉めてしまおうと考えた。
が……。
「おい、ちょっと待て!」
やつはぼくの仕草を見て、ドアを強引に全開にした。自慢じゃないが、ぼくは力には自信がない。抵抗できるはずもなかった。
「……お前な、どうしていつもそんななんだ? 俺の何が気に入らない? 俺がいったい何をしたっていうんだ? 答えろよ!」
片山は怒鳴った。笑ってばかりいて不平不満を顔に出さないやつだと思っていたが、怒るときは怒るらしい。
ぼくはまだ冷静だった。この場合、とりあえず非は向こうにある。相手の心を自分に合わせようとするのは、ただの自分勝手だ。ぼくの方がやつを気に入らないんだから、それで向こうが怒るのは間違っている。
「お前は、ぼくをあっちこっちひっぱり出そうとしすぎるんだ。要するにおせっかいなんだよ。四六時中貼りついてられる方の身にもなってみてくれ」
「真理子ちゃんなら、四六時中貼りついてても文句言わないくせにさ」
片山は意外な名前を出した。こんなときにはあんまり聞きたくない名前だ。
「なんでここで桂木さんが出てくるんだよ」
やつがそれに答えることはなかった。代わりに、勢いをなくしてぼくに言った。
「なあ……俺たち仲間だろ? 友達だよな? 競馬学校の頃から、一緒にがんばってきた仲じゃないか。それなのに……」
仲間だの友達だの、こいつには言ってほしくない。
……と思ったとき、やつはまた突然表情を変えた。今度は鋭い顔だ。忙しいやつだな。
「わかったぞ。なんでお前が真理子ちゃんだけ受け入れて、俺だとそんな顔するのか」
何を言い出すんだろう。
「それは、お前が彼女のことを好きだからだ」
「な……!?」
……それは、ぼくを天から地にたたき落とすほどの一言だった。
「違うか? 違わないだろ。彼女に構ってもらいたいお前は、同じように干渉してくる俺が邪魔なんだ。だから俺だけ遠ざけようとする」
「……」
「好きになったのはいい。誰だって恋はする。だけど、弱いふりして彼女の同情引こうなんて、考え方が卑怯だと思わないのか?」
「何だと……」
たたき落とされたぼくは、そこから一歩はい上がったのを感じた。
「お前はあの日……海で溺れたときから、何も変わっちゃいない。ブローチを拾えなかったことは、彼女だってもう許してるはずだ。それなのに、あれから3年間も同じことで悩むふりして、何かあるたびに彼女の優しさに甘えて……」
「お前なんかに何がわかる!!」
……気がついたときには、左の頬を押さえてその場に座り込み、涙目になっている片山の姿があった。
しびれの残る右手もそのままに、ぼくは力の限り叫んだ……。
「ああ、そうだよ! ぼくは彼女が好きだ! でも、だからどうだっていうんだよ! お前には関係ないじゃないか! それに、昔のことなんか言われたくない! ぼくは……ぼくはあの日から、お前みたいな軽薄なやつにはわからない苦しみを抱えたままなんだ! そんなことも感じ取れないやつは仲間でも何でもない! 帰れよ!!」
ぼくは問答無用でドアを閉めた。
……その直後、涙があふれて止まらなくなってしまった……。