アルサーンスの空の下で                  
 
  第十一章  
       
 
 

 

 やっぱり、ここか。
 ディオは、夕闇迫る色に染まった町並みを見下ろしながら、心の中で呟いた。あれから二人きりで話せる場を求めて、町の中をさ迷ったが。小洒落たレストランなりバーなり、まあ、アルサーンスのような田舎にそういうものがあるかどうかは知らないが。とにかくその辺りの知識が全くないディオは、結局アンジュを、聖会裏の墓地前に連れてきた。
 ダルダの騒動以来、めっきりここは人影が減った。カップルの姿はなく、たまに度胸試しと称して、やんちゃな連中が夜中に訪れるくらいだ。だがそれも、せいぜい後一ヶ月くらいのことだろう。「人の噂も二ヶ月ぽっきり」ということわざにもあるように、恐怖であろうが何であろうが、人の心は直ぐにそれを忘れるようにできている。苦しいこと、悲しいこと、そういう嫌なことは全て。
 でも、それが逆の感情の場合、作用はむしろ反対の方向を持つ。楽しかったこと、嬉しかったこと。特に、誰かの温かな心に触れた想い出は、いつまでも消えない。思い出す度、それはより鮮やかに蘇るのだ。
「あの……ディオさん?」
 遠く、じっと海を見据えるディオに向って、アンジュが言う。
「お話って、何でしょう?」
「あ、ごめん」
 ディオは振り返り、アンジュを見た。小さく、息を呑む。亜麻色の髪、青い瞳、そして白い肌。落ち着いた色彩の中で、それらは自ら光源を持つかのように輝いていて、ディオはしばし見惚れた。
「……あの、ディオさん?」
「あ、ごめん」
 視線を反らし、頭をかく。
「そこ、座ろうか。その方が落ち着く」
 ディオはそう言うと、墓地の大きな鉄門の横にある、見事に枝の張ったクレの木の根元に腰を下ろした。戸惑う表情を湛えたまま、アンジュも傍らに座る。
 無為な時が、また過ぎた。切り出すタイミングと言葉を見失ったまま、沈黙が続く。海の青が、刻々と色濃くなっていく。
「……あのう」
「リテースト夫妻に会ってきた」
 堪り兼ねたようなアンジュの声に促され、ディオはいきなり本題に入った。海を見据えたまま、続ける。
「エルダ・リテースト、そのご両親に。そして」
 返事はなかった。声を返してくれたのは、空高く舞う二羽のカラスだった。
 呟くように、ディオは残りの言葉を吐いた。
「写像画を見せてもらった。四ヶ月前に亡くなった娘さんの、写像画を」
 町並みの、彩度が落ちる。
「そう……ですか」
 小さな声で、とても小さな声で。アンジュが言った。
「写像画をご覧になられたのですか。ディオさんは」
 囁くような声が、風に乗って流れる。クレの梢が、ざわざわと音を立てる。それが静まるのを待って、アンジュがぽつりと一言を紡いだ。
「それで、どうなさるおつもりですの?」
「どう……とは?」
「わたしは罪人として、大聖会に引き渡されるのでしょうか? それとも聖務署に捕われるのでしょうか?」
「罪を犯したのは、君じゃない」
 ディオはそう言って、アンジュを見た。薄く、微笑ともとれる形を唇に施した、美しい横顔に向って話す。
「それに、俺はまだ全てを知らない。なぜ、ベルナード聖使徒様が、そのような罪を犯したのか。愛する娘の記憶と、ユロン病で明日をも知れぬ娘の記憶を入れ替える、そんな魔法を施したのか。下手をすれば、二人とも廃人となってしまう危険があるにも関わらず。何より、道義的に否とされている、禁忌の法であるにも関わらず。なぜ、聖使徒様はそんなことを為されたのか。俺はまだ、知らない」
「それを、あなたにお話しなければならないのでしょうか」
 瞳に海を映しながら、静かにアンジュは言った。表情は、まだ柔らかい。だがその目は冴え冴えと、冬の星のような光を湛えていた。
 強い拒絶に、怯む。アンジュから視線を反らし、自分も町の向こうを見やる。
 深い青色の海に、灰色が滲んだ。その色に引きずられるように、空が徐々に翳る。ずっと白い色を残していた高い雲だけが、頬を染めるように色を増す。もうすぐ夜が訪れる。あの水平線のすぐ先に、それは広がっている。
 ディオの脳裏に、闇の情景が蘇る。暗黒の彼方に消え去った者の意志が、思い出される。
 ディオは、重い口を開いた。
「頼まれたんだ、俺は。ベルナード聖使徒様に……ディオ、後を頼むと。娘を、エルダを頼むと」
 ふうっと。
 深い息の音が傍らで鳴った。振り向く。アンジュの海色の瞳と、視線が合う。
「そう……ですか」
 寂しげに、悲しげに、それでいて優しげに。アンジュは微笑んだ。すっと立ち上がる。聖会の方に向って、数歩歩いたところで立ち止まる。
「では、全てをお話しなければなりませんね」
 ディオに背を向けたまま、静かに言葉が語られる。
「わたしは――わたしは確かに、あなたのおっしゃる通りローディアです。この頭の中だけ、ここにある記憶だけ、ベルナード聖使徒の娘です。でも体は、エルダ・リテーストという娘のもの。もはや祈りの魔法なくしては、生きていくことの叶わぬ娘のものでした。もちろん、そのことが免罪となるわけではありません。たとえ明日死ぬ運命であったとしても、命は命。それをないがしろにすることは、何人にも許されぬこと、神をも恐れぬ冒涜であること。父は誰よりも、分かっていました。分かっていて、道を誤りました。あの日、ドーレ聖使徒様が訪ねていらして、危険が迫っていることを知って」
「危険?」
 ディオが口を挟む。
「それは、一体? ドーレ聖使徒はなんと? そもそも、ベルナード聖使徒様との関係は? どのような間柄だったんだ? 俺達が調べた限りでは、今から二十七年前、ビヤンテ区国内の大聖会で十年ほど御一緒だった、とあるけど。その後ドーレ聖使徒はビヤンテを離れ、三年の後、ベルナード聖使徒様もアルサーンスに赴任され、以来、両者の間に交流はなく、四ヶ月前、いきなりドーレ聖使徒がアルサーンスを訪れるまで、二人は会ったことがないと」
「よく、お調べですのね」
 小首を傾げ、アンジュが横顔を見せる。その表情が、想像していたものよりずっと明るかったので、ディオは何だか安心したような気持ちになった。
「俺が調べたわけじゃないけどね。こういうのは、苦手だから」
 アンジュの唇から、軽く笑みの音が漏れる。続けて、次なる言葉が紡がれる。
「最後に二人が会ったのは、お調べになった通り、四ヶ月前のことです。でもその前は、十七年前などではありません。ドーレ聖使徒様がビヤンテを去った年――ではなく、その三年後。父がビヤンテを去り、アルサーンスに向う途中、二人は一度会っています。そしてその時、私は父の娘となったのです」
 うん、と頷きかけ、ディオは首をひねった。

 
 
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  第十一章・2