アルサーンスの空の下で                  
 
  第十一章  
       
 
 

 ディオの脳に残る記憶が、互いの手を通して共通の映像となる。大聖会の闇部との死闘、振り返るベルナード聖使徒、その顔に浮かぶ苦悩と悲哀。そしてそれ以上に強く、確かな優しい気持ち。
 ディオ、後を……娘を――エルダを……。
「ああ」
 アンジュの目の縁から、涙が溢れる。膝を折り、泣き崩れる。
「お父様、お父様、お父様!」
「――アンジュ」
 自分も跪きながら、ディオは言った。
「これで、分かっただろう? 聖使徒様の心を、その想いを」
 頬に残る涙をぬぐい、その手を胸にあてアンジュが呟く。
「……はい」
 息を整え、目を開ける。いつもと同じ、底に深い煌きを湛えた瞳が顔を出す。
「ありがとう……ございました。これで、これで、決心がつきました」
「決心?」
 ディオが尋ねる。
「決心って?」
「わたし、今からビヤンテに参ります。ビヤンテの大聖会に」
「アンジュ?」
「そこで全てを話します。何もかもを、明らかに」
「だけどアンジュ、それは」
「たとえそれで、なにがしかの罰が与えられようと、わたしは恐れません。忌むべき存在として死を、あるいは死と同等の処分が言い渡されても、わたしは怯みません。わたしは今まで、心のどこかに小さな刺があるのを感じていました。命を狙われているようだと、ドーレ聖使徒様が父に告げにいらした時、それははっきりとした痛みを伴ってわたしを苦しめました。禁忌を犯し、自然の理に背いて生きる者となってからは、どれほどの愛に包まれようと、どれほどの光の下にいようと、わたしの心は闇に閉ざされていました。あれほどたくさんの笑顔に包まれていたのに。深く理由も聞かず、わたしを側に置いてくれたエマおばさま。暖かく迎え入れて下さった、ザックスさん、トーマさん達、間借り人のみなさん。わたしの作ったものを美味しいといって召し上がって下さる、イーノさん、ユンデさん、他にも大勢。そしてもちろん、ディオさんも」
 アンジュの声に、柔らかく吐息が加わる。そのことに、ディオは胸の詰まるような思いで眉を寄せた。
「俺は……俺は別に。何も知らず、何もできなかったから」
 アンジュが小さく首を振る。
「悪いのは、わたしの方です。あの時は、自分のことだけで何も見えていなかった。自ら心を閉じていたのです。でも今、お父様の最期の想いを知ることができて、気持ちはすっきりと晴れました。これほどまでにわたしは父に愛されたのだと、誇らしくビヤンテで宣言したい。わたしを守るため、命を落とされたドーレ聖使徒様の優しさを、伝えたい。そして現在はどうであれ、この世に生を受けた時、その命を消そうとはなさらなかったメルベラン真修公の心を、わたしは認めたい。命あればこそ、わたしはたくさんの喜びを知った。たくさんの人に出会った。その命を与えてくれた人、守ってくれた人、育ててくれた人。全ての人に感謝したい。そのことを、わたしはビヤンテの聖皇様に告げたい」
「……アンジュ」
「だから――」
「それは困るな」
 低い声が、ディオの直ぐ耳元で鳴った。恐怖が先に、体を縛る。それで一歩、出遅れる。
「くう」
 何度もひっくり返りながら、ディオは転がった。天と地が全く分からない状態で、とりあえず止まる。世界がじわりと回転を続ける中、顔を上げる。
 アンジュの姿が、右上から左下へと流れていった。続いて影が、それを追う。見据える先で、影の右手が前に伸ばされる。指先が白く光る。するすると長く、細く膨れ、まるで槍のような形となる。
「あっ」
 光の槍が、空中でしなるような動きを見せた。必死で立ち上がる。しかし、ふらつく足は一歩も進まないうちに、再び崩れた。
 槍が、しなやかな動きで、いったん強く引かれる。影の両手がそれをつかみ、勢い良く前に突き出される。
 思わずディオは顔を背けた。だが、予想した音が、耳に聞こえてこない。悲鳴をあげる間もなくやられたのか。怒りと嘆きに打ち震えながら、ディオは顔を元に戻した。
「何をしている、ぼやっとするな!」
 言葉をなくす、というより、行動をなくす。自分をどやしつけた声を、そして、アンジュの前に立ちはだかり、光の結界を張った者を。耳と目ではっきりと確かめていながら、なお頭が理解を示さない。
 光の結界に弾かれた槍が、大きく後ろに撥ね返った。風のように影が地を走り、それをつかむ。そして、
「来るぞ! 聖務官なら、自分の身は自分で守れ!」
 しょ、署長……。
 ようやく頭が、事の次第を呑み込む。しかし、その時ディオの意識は、目に映るもののみに集中していた。
 ぽきりと枝でも折るように、影の持つ槍が二つに分かれた。にょきにょきと生き物のように伸び、より太く、長い姿となる。光の強度が増し、硬い輪郭が模られる。二つの槍が、それぞれの獲物目掛けて、飛ぶ。
 とっさにディオは、槍を左によけた。よけた瞬間、背筋に気を感じる。体を四分の一ほど返したところで、目がその存在を捉える。一瞬のうちに背後に回り込んだ影が、かわした槍をつかみ、それを突き立ててくるのを見る。細く尖った槍の先端が、ディオの腹を抉らんと迫る。
 後ろにひいてよけることはできない。
 左右に逃れる暇はない。
 呪文を紡いで結界を張る余裕は、もとよりない。
 ――後は。
「くうっ」
 火のように熱く、氷のように冷たい感触が腹に刺さる瞬間、ディオはその槍をつかんだ。白い手袋をはめた左手と、むきだしとなったままの右手。まず右手が、光の槍の持つ強力な冷気に、痺れるような痛みを訴える。続いて左手が、信じられないほどの熱を感じ、震える。体、ではなく、心を守るための白い手袋が、焼け焦げ、消える。
 ディオの脳天に、叩きつけるような衝撃が伝えられた。槍の持ち主の純粋な殺気が、ディオを丸ごと鷲づかみにする。
 ばきばきと骨を折り、肉を裂くように、心を砕く。細胞の一欠けらとなるまで握り潰されるような苦痛に、悲鳴を上げる。
 ディオはつかんだ槍に引きずられるように、膝を折った。ずるりとそこに倒れ伏す。
「ディオさん!」
 遠く聞こえたアンジュの叫び声が、一瞬だけディオに自身を取り戻させた。仰向けに寝そべった頭上に振り翳される槍を見据え、右手を伸ばす。槍に抗う力はもうない。ディオの右手は、上にではなく横に向った。槍を構える影の足元、その足首をつかむ。そこに、自分の気の全てを、一気に流す。
「くっ」
 短い呻き声を上げて、影がそれを嫌った。ディオの手を振りほどき、後ろに飛び退く。頭も体もふらつく中で、急いでディオが結界を張る。光の波が、周りを取り囲む。
 って、あれ?
 目を凝らす。
 奴がいない? あいつはどこだ?
「気をつけろ、ディオ。奴は一瞬で消えた。どうやらあの影も、異空間移動の達人のようだ」
 やっぱり。
 セシルアの声に、そう心の中で返事をしながら、ディオは懸命に考えた。

 
 
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  第十一章・5