アルサーンスの空の下で                  
 
  第十一章  
       
 
 

 アンジュは今、体ではなく頭の中、つまりローディアの年齢は、確か十七歳であったはずだ。ベルナード聖使徒様がアルサーンスにいらしたのは、今から十四年前。確かにあの時ローディアは、三歳くらいだった。もちろん自分も子供だったので、記憶にはっきりしない部分も多いが、いくらなんでも三歳の少女と赤ん坊とを見間違えたりはしない。
「でも」
 ディオは疑問を口にした。
「君は、だって――あの時はもう」
 アンジュがこちらを向く。そしてにっこりと笑う。
「ええ、そうです。生まれたのはもっと前です。父の娘となる前、私は別の人の娘でした。ドーレ聖使徒の」
 え? 
 心の中で、ディオは叫んだ。
 今の今まで、ベルナード聖使徒とローディアの関係を疑ったことはなかった。確かに、姿形はあまり似ていないと思ってはいたが。いや、そう思ったのは最近のことだ。そもそも、三歳のローディアを目にして以来、ディオはほとんど彼女を見たことがなかった。病気がちのローディアが、人前に出ることなど滅多になかったからだ。町の者もみな、同じだろう。だが、仮にもし、外見から不審に思う者があったとしても、彼らの関係を疑う結論には達しなかったであろう。様々なシステムが、そのことを明確に否定していたのだ。
 我がティアスタ国では、親のいない子供、何らかの事情で親が手放した子供の保護を、国政として行っている。大きな街にはそれなりの施設が、小さなところでは町や村の有力者が互いに協力し合い、子供の面倒を見ることが義務付けられているのだ。ディオ自身もその恩恵に預かり、今に至っている。ゆえに、聖使徒が孤児を引き連れて現れるなどというのは、極めて異例のことであり、特定の条件が重ならなければあり得なかった。つまり、貧しい地域の孤児で、その地にもはや誰も頼る者がなく、聖使徒によってのみ保護されていた。しかし、聖使徒が転任することとなり、転任先にも受け入れ体制がなかったため、引き続き聖使徒の下で孤児が育てられる。そういう、場合。
 しかし、ベルナード聖使徒が前にいたところは、ビヤンテ区国だ。ティアスタ国の王都でさえ敵わぬほど、各施設は充実している。そこから孤児を連れてくることなど、考えられない。というか、そもそもローディアは孤児ではない。ドーレ聖使徒は、つい一ヶ月前まで御健在であった。何より、ドーレ聖使徒には妻がいる。子供を手放す必要など、どこにもない。可愛い盛りの、三歳の子供を。
 そこで、ディオはいったん思考を止めた。
 三歳、ということは、三年前に生まれたわけだ。三年前、ドーレ聖使徒は、まだビヤンテ区国の大聖会にいた。それはいい、問題ない。聖使徒の身分であればどこにいようと、結婚も、子供を持つことも自由だ。だが、確かドーレ聖使徒は、ファルスの町で夫人と巡り合い結婚した。そう、資料にあった。
 って、ことは――。
 ディオは迷いながらも、口を開いた。
「あの……」
 微笑を湛えたままのアンジュの顔を、気まずい思いを抱えながら見上げる。
「その……なんで、ドーレ聖使徒は」
 そこまで言って、慌てて言葉を切る。
「あ、いいんだ。話したくないことなら、別に」
「話したくはありません。でも、そこが全ての核心なのです」
「……アンジュ?」
 問いかける先で、アンジュの表情が変わる。微笑が消え、感情の一切が隠れる。
「わたしは、ドーレ聖使徒の娘ではありません」
 その言葉を呑み込むのに、ディオはかなりの時間をかけた。これまでの話から、アンジュは聖職者としてはあるまじき、ドーレ聖使徒の不義によって生まれた子供だと、勝手に思っていた。それゆえ、事の表面化を恐れ、その子を子供のいないベルナード聖使徒に託した。二人がビヤンテでどのような間柄であったのかは分からないが、それなりに信頼関係を築いていたのだろう。いや、たとえそうでなくとも、ベルナード聖使徒ならと、ドーレ聖使徒が見込んだ可能性もある。愛する我が子を預けるに足る人物は、秘密を守りきることのできる者は、彼しかいないと。
 そこまで想像したにも関わらず、根底からそれは覆された。アンジュは、いや、ローディアは、ドーレ聖使徒の娘でもなかった。では、一体誰の娘なのか。それを紐解く鍵は――。
 ディオは、大きく目を見開いた。アンジュを見つめ、呻くように呟く。
「狙われたのは、君、だったんだね」
 アンジュは何も答えない。ただ悲しそうな目で、ディオを見る。
「あの影が滅したかったのは、ドーレ聖使徒ではなかった。現場に居合わせた、ベルナード聖使徒様の口を封じたかったわけでもない。最初から最後まで、狙いはローディアだった。大聖会の闇部が殺したかったのは、彼女だった。ユロン病の――違う、ユロン病は」
 アンジュの睫が、わずかだけ伏せられる。その陰で、瞳が濡れたような煌きを発する。 「四ヶ月前、ドーレ聖使徒はそれを告げに来たのか。ローディアが危険だと。それで、それでベルナード聖使徒様は、万が一に備えてエルダを」
「父は……」
 そう、苦しげに紡がれた声に、温かな響きが滲んでいた。哀色に染められた瞳が、じっとディオを見る。
「最後まで父は、ベルナード聖使徒様は、迷われていました。決断を下した後も、悩み苦しみ続けました。己のことではありません。神に仕える身でありながら神に背いた自分は、この世でもあの世でも、未来永劫救われることはないと。神の国に召されぬはおろか、全ての終焉である断罪の時を迎えても、直ぐに魂を滅して頂くことは叶わぬだろうと。その最後の九十九日間、肉体に与えることのできるありとあらゆる苦痛を凌ぐ苦しみが、魂をさいなむことを、聖使徒様はご覚悟なされていました。ただ唯一心を痛めていらしたのは、罪がわたしにも及ぶこと。禁忌の法によって生かされた者が、神の国に入れるわけがない。現世での罪を、何千、何万年の時をかけてあの世で償っても、断罪の時、魂は滅ぼされてしまう。聖使徒様はそう嘆き、悲しまれたのです」
 アンジュの声が涙で震える。
「その時、わたしはこう申し上げました。これは、お父様が望んだことではありません。罪はわたしの方にあるのです。そしてそれは、今、生まれたものではなく、私がこの世に生を受けた瞬間、すでにあったものなのですと」
「生を受けた瞬間?」
「わたしは――ルドラス・メルベランの娘です」
 ルドラス・メルベラン?
 どこかで聞いた名だと思う。どこで? 食堂で? 居酒屋で? いや、そんな身近ではない。何かのニュース、それで聞いた。確かあれは、大聖会の広報。御老体の聖皇様に代わって、五人の真修公が各国の視察を行うという転映報道があった。その時誰かが、マーチェスだったか。彼が、大聖会で起きている、次期聖皇候補争いについて話してくれた。候補者は二人、イール・ファンドレオ真修公、そしてルドラス・メルベラン――、
 真修公?
 ディオは思わず立ち上がった。

 
 
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  第十一章・3