アルサーンスの空の下で                  
 
  第十一章  
       
 
 

「アンジュ、君は、もしかして」
「罪はわたしです。わたしが罪なのです。生まれてはならぬ子、生まれるはずのない子。俗世とは無縁の清き体であるはずの者が、神の教えに背いた証、それが、わたしなのです」
「でも……でも……」
 ディオの声が、自然と強まる。
「それは、君の罪じゃない。君が悪いわけじゃない」
「ありがとう」
 憂いを湛えたまま、アンジュが言った。
「だけど、ごめんなさい。それでもわたしは、この苦しみから解放されることはありません。少し、そうほんの少しだけ、気持ちは軽くなったけど。それでも」
「……うん」
 ディオは頷き、押し黙った。
 正しいのか、正しくないのか。それだけを考えるなら、ディオは今自分が言った言葉に自信を持っていた。間違ってはいないと、アンジュに、ローディアに罪などないと。だが、そんなことは彼女も十分、分かっていることだろう。分かっていながら、なおアンジュは苦しんでいるのだ。自分の生を、存在を、百パーセント認めることのできない苦悩の中で、喘いでいるのだ。
 しかも、彼女はその命を狙われた。実の父、メルベラン真修公に。もちろん、父親自身が、彼女の命を消そうとしたかどうかは、まだ分からない。大聖会などというところは、魑魅魍魎の類が山といるので、そそのかされたり、あるいは案外知らぬ間の出来事なのかもしれない。
 しかし、それを知る術のない今、そのことをとやかく論じても意味はない。事実は一つ。アンジュは狙われた。次期聖皇問題で揺れる大聖会の闇部に、自分自身で完全に認めることのできない命を、否定された。衝撃は、いかほどのものであろう。アンジュを襲った失意の闇は、一体どれほどの深さであろう。闇に篭もらず光の下に出て来いと、闇に囚われたことなどない者が、言っていいものなのだろうか。優しく、美しく、晴れやかな笑顔で、その闇を隠し続けた彼女に。
「父も」
 ぽつりとアンジュが言葉を零す。
「ベルナード聖使徒様も、同じ気持ちだったのですね。きっと、今の私と。聖使徒様もその時、ありがとうと答えて下さいました。優しく笑って下さいました。でも、それから後も、聖使徒様は苦しみ続けた。だからわたしは、父の下から離れることを決意した。父のために……いえ」
 アンジュの口元が、自嘲するような笑みを模る。
「父のためだけではありません。わたしは、あの時逃げたのです。辛かった。この新しい姿で父の側にいることが。そして、かつてわたしのものだった体の中に、エルダが閉じ込められてしまったのを見るのが、とても」
「……アンジュ」
「誰が許しても、たとえ神が許しても、エルダはわたし達を許さないでしょう。決して、許してはくれないでしょう」
「それはどうかな」
 ディオが呟く。
「多分、許してくれていると思うよ」
「優しいんですね、ディオさん」
「そうじゃなくて」
 きっぱりとした声で、ディオが言う。
「本当に彼女は、エルダは。君達のことを恨んだりなんかしていない」
「……ディオさん?」
「亡くなったエルダは、まるで微笑んでいるようだったって、バジルさんからそう聞いた。ユロン病であったことを疑うほど安らかな表情だったって、バジルさんが教えてくれた。きっと、彼女は気付いていたんだよ。あんな風に、ただ息をするだけのように見えていたけど、彼女の心はちゃんと生きていた。彼女の心は、全てを分かっていた。ベルナード聖使徒様の気持ちを、その愛を、ちゃんと感じていたんだ。そしてそれは、俺の中にも残っている。エルダ、と名を呼ぶベルナード聖使徒様の声が、その響きに込められた、優しい気持ちが」
「父――らしいですわ」
 アンジュの表情が、少しだけ綻ぶ。
「全力で、本当に心の底から、エルダを娘として愛したのですね」
「そして、君をね」
「わたし?」
「エルダという言葉に込められた想いは、君にも向けられている」
「そんな、そんなことは」
 強い口調で、アンジュが否定を示す。
「それでは、エルダに対してあんまりですわ。わたしに想いを残すことなど」
「どうして?」
 ディオはアンジュの方に歩み寄りながら言った。
「想いの深さは、そんなことで変わりはしない。聖使徒様は深く、揺るぎなく、二人の娘を愛した。それだけの心の広さを持っていらした。君はそれを、疑うのか?」
「ディオさん……」
「何より、今のは俺への侮辱でもある」
「侮辱?」
 アンジュの海色の瞳が、丸く膨らむ。その目をじっと、ディオは見据えた。
「俺は心眼者だ。専門は物だけど、想いを感じる力は特心眼でも同じだ。エルダを頼む。そうおっしゃったベルナード聖使徒様の心が、どこに向いていたのか。今ならはっきりと分かる。その瞬間、潰えようとしていた命に。そして、物心ついてからというもの、自らの出生に悩み苦しみ続けた命に。その二つを守らんがため、聖使徒様は全てを捧げた。文字通り、全てをだ」
 ディオが、ゆっくりと手袋を外す。右の掌を、アンジュに翳す。
「ここにちゃんと残っているから。ベルナード聖使徒様の最期の瞬間が。自分の目で、心で、確かめてみるんだ」
 縋るような視線が、ディオに向けられる。心の迷いを示すように、瞳が何度も揺れる。ようやく意を決し、唇をきつく結ぶと、アンジュはそろそろと右手を掲げた。そっとその手を、ディオの手に合わせる。
「あっ……」
 アンジュの唇が、小さく開いた。反対に、目が閉じられる。

 
 
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  第十一章・4