アルサーンスの空の下で                  
 
  第十一章  
       
 
 

 あの槍男の力なら、こんな結界は苦もなく突破してしまうだろう。高位の異空結界とて、結果は同じだ。防戦一方では、明らかに不利。かといって、こちらから仕掛けるのは、さらに分が悪い。
 俗に、『鉄壁の防御を得たくば攻撃せよ』などと言われるが。これだけ力に差がある場合、それは敵が隙を見せている時に限られる。相手を見くびり油断する、自らの力を過信する、そういう状態の敵に有効な手だ。だが残念なことに、槍男にそれはない。最初の攻撃に失敗した彼は、次こそは間違いなく敵を仕留めようと、気配を消し、息を潜めている。逆に、こちらの隙を伺っている。気の緩む瞬間を待っている。俺の緊張の糸が、切れてしまうのを。
 ん? 俺の?
 ディオの顔が、セシルアの方に向けられる。
 違う、奴の狙いは。
 漠然と見開かれていたディオの目が、無意識のうちに異変を映した。視界の下方から上に向って走るものがある。地面の亀裂、いや、亀裂というには程遠い、微かなひび割れ。わずかに土ぼこりが舞うだけの、直ぐ下でもぐらか何かが走ったような、そんなみみず腫れのような跡が、地面に刻まれていくのを捉える。
「署長!」
 ぼこりと、セシルアの施した光波結界の中心で、土が盛り上がる。
「下です!」
 その声と同時に、土煙が上がる。ちょうどセシルアとアンジュの間を割りながら、マグマのように吹き上がる。
 煌く光の槍が、セシルアを薙ぎ払った。パイチ色の制服を、辛うじて切り裂いただけに終わった槍が、返す力で背後を叩く。呆然と立ち尽くす、アンジュを貫かんと翻る。
「アンジュ!」
 ディオは夢中で右手を地面につけた。そこに、魔力を注ぐ。影のつけた土のうねりを道筋に、全ての気を送る。槍を構えた影に向かってぶつける。
 届け、届け、届け――!
 影の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。びくんと一度、体を小さく震わせる。だが。
 ここまで……か。
 力尽きるまでの時間は、わずかだった。意識が遠のき、視界が霞む。光の槍が再び動きを取り戻す瞬間、ぎりっと音を立てたように感じる。すぐ側で、あるいは胸の内の中心で、それが鳴ったかのような感覚を覚え、脱力する。
「くそう」
 ディオの唇が、無念の音を漏らした。その響きを、激しい風の音が吹き消す。
 あれ――は?
 ディオは目の前を、まるで稲妻のような勢いで走るつむじ風を見た。風が影を襲う。渦巻くその風の端に弾かれ、セシルアとアンジュの体がそれぞれ逆方向に飛ばされる。高く、柔らかく、浮く。
「――マーチェス?」
 ディオの呟きと同時に、つむじ風が真っ二つに割れた。光の槍に切り裂かれた空間に、再び影の姿が現れ出でる。そこへ、
「ベッツ?」
「おりゃあああ!」
 マーチェスの作った風にたくみに乗り、両手をしっかりと握り合わせた状態で、ベッツが空から降り落ちた。力任せに、影の脳天を打つ。ぐしゃりと影の姿が、圧力に潰れる。
 やった!
 と思ったのも束の間、影が動いた。ひしゃげた姿のまま、蜘蛛のように地を這い、走る。信じられないスピードで、今まさに柔らかな風の助けを受けながら、静かに地上に降ろされようとするアンジュの側に迫る。
「アンジュ!」
 喉の奥から、絶叫を搾り出す。尾を引いて響くディオの声に、硬い音が混じる。影の槍が、強く弾かれる音が重なる。
「ここから先は、一歩も通さんぞ」
「……バジルさん、ガラウスさん、それにフラー副署長」
 ディオの目に、淡い銀色の光が映り込む。三聖結界。三人の聖務官によって作られた、輝く半透明の壁でできた三角錐。中心にしっかりとアンジュを守り、冷えた肌で銀の壁が影を見据える。迂闊に近付けば、たちまちその表面から生え出た無数の刺が、侵入者を貫く。高い攻撃性をも兼ね備えた結界に、さすがの影も、忌々しげな舌打ちを零す。
「そこまでだな」
 セシルアが影に向って厳然と言う。
「大人しく立ち去り、主に伝えよ。我が町の、罪なき者に危害を与えることを、アルサーンス聖務署は決して許さぬと」
「……罪なき者、だと?」
 想像よりも高めの声で、影が呟く。男の顔に、歪んだ笑みが浮かぶ。
「罪そのものの存在を、違うだと? 挙句何の権限があって、そのようなふざけたことを。たかが」
 影の手に、光が溢れる。槍ではなく、玉。この世の全ての光を結集したかのような輝きが、そこに溢れる。
「聖務官ごときが!」
 光の玉が、影の手を離れる。最初は拳くらいの大きさだったものが、空間を切り裂きながら瞬く間に膨れる。セシルアを呑み込んでもなおあまりある巨大な光が、その破壊力を誇示しながら飛ぶ。
 地が抉れる。風がうなる。いくつもの雷鳴を重ねたような音が響く。強烈な光が、目に映る全てを消し去る寸前、ディオはセシルアがふっと笑うのを見た。
 無理だ。
 突き刺すような光に目を細め、ディオは呻いた。
 いくら署長でも、大聖会の闇部相手では。あんなものを、まともに食らったら。
「うはっ」
 爆風に煽られ、ディオは両腕を顔の前に掲げた。あまりの圧力に、ずるずると体が後退る。
 署長……署長は……。
 絶望を胸の内に覚えながら、なお吹き荒ぶ風に逆らって、ディオは掲げた腕を下ろした。
 黒髪が、しなやかに靡く。
 うねる風の中で、セシルアは悠然と立っていた。散り散りに砕けた光玉の残骸が、まだ空間に名残を見せている。氷の結晶のようにきらきらと純粋な光を放ちながら、セシルアの周りを飾っている。
 すっと薄闇の中に溶け入るまで、光は彼女を美しく煌かせた。その微笑を、輝かせた。
「署長!」
 ディオの驚きよりも、さらに大きく表情を壊して、影が喚いた。
「貴様――一体、何者?」
「ただの」
 セシルアの眉が、その口角以上に鋭く上がる。
「聖務官だ――ワルド」
「うっ」
 影が身を返す。翳されたセシルアのガントレットから逃れんと、呪文を紡ぐ。空間が揺れ、男の背後に異空が現れる。
「ラス!」
 放たれた魔法弾が、影に向って真っ直ぐに飛んだ。もし、影とセシルアとを結ぶ線上に、別の影が降り落ちなければ、その大聖会からの刺客は、異空に逃れる前に絶命していたであろう。
 降り落ちた新たな影の外衣が、セシルアの魔法弾を柔らかく包む。衣が内に抱く、小さな異空の窓が、それを吸い込む。
 新手?
 そう思うより早く、ディオは全身に緊張が走るのを感じた。一呼吸の間を置き、その理由を理解する。
 新たな敵の出現、ただそれだけに、自分は驚いたわけではない。現れた新たな敵に覚えがあるから、自分の体は震えたのだ。
 この気、この影、間違いない、彼は――。

 
 
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  第十一章・6