「もう、止めよう」
中空に視線を置き、子供が興じていた遊びを放り投げるかのごとく、軽い言い様でミオウが呟いた。意を量りかね、皆が沈黙する。唇の端に、小さく笑い声を乗せたシャン国王の言葉だけが続く。
「どちらの言が正しいか、いくら言い争いをしても決着を見ることはなかろう。真実は一つ。その一つが人の数だけあるということだ。さて、ユズムラ殿の真実はいかに?」
ばんと大きく床を踏み鳴らし、ウル国王がミオウに詰め寄る。これほどの茶番を目の前で見せられた屈辱、人をも国をも愚弄されたことに、腹を立てる。
「残念だ」
吐き捨てるような声。だが、次に放たれた言葉は、低く落ち着いた領域の中にあった。
「貴国と共に歩むことができず、まこと残念だ。次に会う時は」
「戦場で、となりましょうな」
ミオウが答える。
ウル国とシャン国は、この瞬間をもって互いに敵となった。しかしそれ以上、そこで諍いはなかった。
今ミオウを捕らえるなり切り捨てるなりしても、先の事態はより悪化をみるだけだ。表面上とはいえ、ここでミオウを討てば、騙まし討ちとなってしまう。主君をそんな形で失ったシャン国の怒りは、未曾有のものとなるだろう。そのことをウル国の王はよく理解していたし、何よりそのような行為を良しとしない性格、及び国民的気質があった。ユズムラ王の一言で、周りの者達もたちどころに落ち着いたのを見て、ミクはそう感じた。
それにしても、何と豪胆な。
改めて、そう思う。
ウル国王のことではない、シャン国王の方だ。陰謀の工作者を宴の席に出す大胆さも然ることながら、この作戦自体の博打ぶりも、普通の神経では考えられない。場合によっては、この場で命を絶たれたかもしれないのだ。そんな危険を冒してまで、彼はウル国に対するシャン国民の戦意を高めようとした。より強い力を、より豊かな富を。そういう人の欲に加え、憎しみを糧にしようとした。
エネルギーとしては、後者の方が強大だ。今ある現実にプラスする思考である欲は、状況によってあっさり忘れることができる。全てが上手く回っている間は、なかなか諦めはしないだろうが、現況が窮すれば、人はまず今あるものを守ろうとする。他者の物に目を奪われている隙に、自分の宝物が失われてしまうと分かれば、うかつには手を出さない。
そこまで追いつめられなければ欲を捨て去れないほど、人は愚かしいものであると嘆くべきか。どれほど情けない人間でも、最後の最後、自分にとって何が大切かを見極める力があるのだと喜ぶべきか。人によって解釈は違えど、確かにそれは存在し、人をぎりぎりのところで滅亡から救う。
だが……。
ミクの瞳に、厳しさと憂いの色が滲み出る。
だが、負のエネルギーである憎しみは、そう簡単には消えない。捨てたくても捨てることができない。その感情が解消されない限り、自分は元に戻れないのだ。安らかであった、自由であった、過去の自分に。
傷つけられた恨みを、傷つけることで晴らす。一時の自由は、その反動でまた奪われる。連鎖は止まることを知らず、人は永遠にその呪縛から逃れられない。どれほど文明が進もうとも、どれほど時代が流れようとも、皆、その連鎖の中で足掻き続ける。
そんな世界に、人々を導こうとしているのだ、この王は。王という立場を利用し、世界中を混沌の中に突き落とそうとしているのだ。
しなやかに、ミオウの声が響く。
「良い宴であった」
嘘、ではないだろう。全て計画通りとはいかなかったが、最終的な目的は達することができた。ミオウの口元に絶えることなく浮かぶ微笑が、それを証明している。
「では、我らはこれで」
ミオウの左手が、後ろに伸ばされる。少し遅れて顔が背後を向く。じっと動かぬ妃を促すように、黒髪が揺れたところで、ようやく一同の目が国妃を見る。ミオウ、そしてもう一人を除く全員が、今までその存在を忘れていたことに気付く。
――ユーリは。
ずっと、国妃を見つめていた。ちょうどギノウが、山での出来事を話し終えた時からだ。突然、胸に響いてきた声。雪の降り積もる夜の庭で、聞いたものと同じ言葉に、ユーリの心は奪われた。
『誰か、わたしを』
君――は?
『わたしを、ここから』
ここから?
『出し……て』
ユーリは懸命に精神を集中させた。目の前で起きていることは、もう分からなかった。サナがティトを守るように抱きながら、そっと自分の方ににじり寄ってきたのは認めていたが、その二人にすら注意を払うことができなくなっていた。
何とかシャン国妃の心に触れようと、意識を滑らす。壁にぶつかる。人ならば、誰もが持つ意識の抵抗。だが、妃の場合は少し違っていた。
意識全体で、つまり本人の意思で強く押し返してくるのではなく、全く別の物に遮られる感覚。儚げで、不安定な意識の波を、ガラス越しに見据えるようなもどかしさ。
誰か、別の意識が彼女を覆っている。
そう気付くまでに、ユーリはかなりの時間を要した。改めて、別の意識に挑む。深い、闇の奥に踏み入る。