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3.藩政-(3)8代容敬と江戸湾防備

8代藩主容敬【かたたか】は、幕末の会津藩主として有名な容保の先代である。容敬の治世は文政5年(1822)からペリー来航直前の嘉永5年(1852)まで31年続いたが、幼少から藩校日新館で藩士とともに学んだ容敬は、内では天保の飢饉の対策に腐心し、外では江戸湾防備を担当して、海防問題について幕府に直言し、井伊直弼からは「当今英雄の大将」と称された。会津藩の幕末は容敬の治世から始まったといえるかもしれない・・・。


■ 容敬襲封

文政5年(1822)、7代容衆【かたひろ】が20歳で死去し、弟の8代容敬【かたたか】が17歳で藩主の座についた。(公式には容敬は6代容住【かたおき】の3男で容衆の弟だが、実際は、水戸6代徳川治保の次男で高須9代藩主となった義和の庶子であり、会津藩家老田中玄宰の周旋で、極秘のうちに養子に迎えられたという(『会津戊辰戦史』))。

■ 借金長期返済計画

容敬襲封の頃、藩の膨大な借金の長期返済(年800両)のめどがつき、容敬は文政6年(1823)には面扶持【つらぶち】を停止して藩士の俸禄を元に戻した。藩財政も徐々に好転し、文政12年(1829)には年間5000両の黒字となった。

■ 天保の大飢饉と容敬の改革

ところが、天保元年(1830)以後、会津は不作・地震・水害に相次いで見舞われ、天保4年(1834)には大凶作となった。不作は天保6〜9年にも続き、農民の生活は非常に苦しくなった(天保の大飢饉)。藩では年貢の軽減、救済米の分配、農民に対する賦役の停止などの対策をとったが、手余地(耕作放棄地)は増大し、農村人口は激減した。年貢収納も激減し、藩財政にも大きな打撃となった。

容敬は、社会的・経済的不安に対処するため、農民・困窮町民のための棄捐(借金棒引き)、役人の綱紀粛正、価格統制による物価引下げ、株仲間の解散などの改革を実施した(天保の藩政改革)。弘化年間に入り、物価統制の停止、株仲間の再興など天保改の修正を行った。(関連:大塩平八郎の乱と天保の幕政改革

■ 江戸湾防備

★ビッドル来航
弘化3年(1846)、アメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀に来航した。翌弘化4年(1847)2月、海防強化のため、幕府は忍藩・川越藩に加えて、溜間詰の大藩・彦根藩と会津藩に江戸湾防備を命じた。会津藩には房総警備が命じられた。

★文化・文政期の江戸湾(相州)防備
実は会津藩の江戸湾防備は先代藩主容衆【かたひろ】の治世に続いて2度目、海防に携わるのは3度目であった。会津藩は、文化5年(1808)にロシアの南下に備えるため蝦夷・樺太警備に出兵したが、文化7年(1810)には相州警備を命ぜられ、文政3年(1820)までの10年間、藩士を駐留させた。駐留が長期に渡るため、現地には藩校日新館の分校が設けられたほどである。このときは、「会津は奥羽の押さえとして枢要の場所であり、遠路懸隔の持ち場と藩兵を二分する現状では、両方ともまっとうすることができない」(『忠』より口語訳)と申し出て警備を免除されていた。

★弘化・嘉永期の江戸湾(房総)警備
容敬は首席老中阿部正弘に対して、「80里も離れ、応援の派兵もできない場所へ400〜500人の兵士を分遣し、城郭のような(外国の)大船が押し寄せたときに、艀・伝馬船のような小船で戦うのでは、どれほど死力を尽して全員が戦ったとしても、食い止めることは覚束なく、警備の意味がない。加えて、我が藩に対して外様大名と同様に外国と戦えと命ずるのは筋違いである。万一外国が日本を窺うことにもなれば、内乱勃発の恐れもあり、御府内第一の防備を命ぜられる筋である」(『忠』より口語訳)と訴えて、江戸湾防備を回避しようとしたが許可されず、結局は「武門の幸せ」と引き受けることになった。(「覚書:松平容敬と阿部正弘 を準備中)

いったん江戸湾防備を拝命すると、容敬は「専ら武道を研究し、人々実戦に臨むが如く、冗費を省き兵備を整へよ。益々学校を盛大にし、勿論奉職の者と雖も、文武の芸を励精せよと」(『家』)と令し、3月から順次藩兵を警備につかせた。嘉永元年(1848)の容敬巡視時の記録によれば、警備兵1397人、大小銃474門、新造船19隻という大掛かりな警備体制であった。

また、藩士一瀬大蔵を江川太郎左衛門に入門させ、西洋砲術を学ばせた。嘉永4年(1851)には江川に大砲鋳造を依頼し、砲台に設置した。

会津藩の房総警備は容保の治世の嘉永6年(1853)まで6年続き、忍・川越・彦根・会津の4藩による江戸湾防備体制でペリー来航を迎えることになる。

★借金財政へ再び転落
一方で、江戸湾防備は藩財政にとって大きな負担となった。幕府からは準備金として金1万両が付与されたがとても賄えず、再び商人への借金が始まった。財政窮乏から幕府にも援助をしばしば求めた。

江戸湾(房総)警備と幕政への関わり
この時期、江戸湾防備についたことは、会津藩が海防問題について中央政局に参加するきっかけとなった。嘉永元年(1848)、浦賀奉行浅野が、江戸湾警備の川越・忍・彦根・会津の4大名に意見を求め、翌2年(1849)、幕府は4大名に異国船入港の際の処置を協議させた。この際、容敬は、異国船来航時の沿岸警備強化を上申すると同時に、幕府が計画していた異国船打払令復活については海防不十分を理由に反対した。異国船打払い令復活は結局、撤回された。このように、参加とはいっても水戸の徳川斉昭のように積極的に建議というものではなく、諮問に答えるという受身の形での参加だが、実際の海防経験に基づき、幕府の方針に是々非々の態度で意見を述べている。(関連:「開国開城(1)ペリー来航:(A)開国の序幕」)。

また、本国から遠く離れた地に大兵を長期間駐留させたは、会津藩が京都守護職候補に挙げられる〜。

■ 将軍家慶の佩刀下賜

嘉永4年(1851)12月、容敬は、12代将軍家慶に佩刀を下賜された。家慶は「藩租以来代々よく武備を修め、汝の代に及んで益々これを精励し、軍事訓練も実地で習得させ、加えて士風も質素で藩政も善くまとめている」と容敬を称し、「今後もますます士風を磨き、質素を守って、武備を整えよ」と刀を下げ渡した。容敬は家老以下藩士を召しだして「汝らが平生力を尽くして奉職した結果である。今後もますます精励しよう。汝らも勉めよ」と令した。

翌嘉永5年(1852)2月、容敬は47歳で急逝した。養嗣子として迎えた容保は弱冠18歳。早すぎる容敬の死であった。

(1)保科正之の基礎確立 (2)財政悪化と寛政改革 (3)幕末:8代容敬と江戸湾防備

参考:『会津藩第八代藩主松平容敬「忠恭様御年譜」』、『会津松平家譜』
『近世会津史の研究・上』、『会津藩の崩壊』

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2003/2/3初出