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3.藩政-(2)財政悪化と寛政の改革


■ 財政悪化の道

藩の歳入は年貢に依存していが、歳出は年々増大し、2代正経【まさつね】の頃には財政難が顕在化した。3代正容【まさかた】の治世の元禄13年(1700)には藩札発行による財政再建を試みたが、物価高騰を招き、失敗に終わった。続いて行われた享保の改革も効果を上げられず、逆に江戸中屋敷の火事・若松城下の大火・江戸城普請による臨時出費がかさみ、享保19年(1734)には借金総額は18万両余にのぼった。4代容貞【かたさだ】の時代には、年貢率を毎年のように引上げて増収をはかったが、ときには7割を超える重い年貢負担に農民の生活は窮乏し、間引きも恒常的に行われて農村人口は激減した。手余地(耕作放棄地)も拡大し、農村は荒廃した。手余地の増加は年貢の収納の減少を意味し、藩財政はますます悪化していった。

■ 寛延の大一揆

寛延2年(1749)、ついに会津藩の農民は一揆を起こし、1万5000人が若松城下に迫って年貢半減などの要求をつきつけた(寛延の大一揆)。一揆は領内各地に飛び火して暴動が勃発した。結局、藩側は農民の要求をのみ、翌寛延3年(1750)2月には貧民の年貢を半額にするなど年貢引下げを実施した。見せしめのため、首謀者は磔などの厳罰に処したが、以後、「民心を無視した高率貢租の収取は不可能になり、藩政はこの一揆を境として大幅に後退せざるを得なくなった」(『近世会津史の研究・上』という)。

■ 5代容頌と家老田中玄宰

一揆からまもない寛延3年(1750)9月、容貞が27歳死去し、5代容頌【かたのぶ】が7歳で藩主に就いた。その治世は55年に及び、その後期には家老田中玄宰【はるなか】と数々の改革を行ったため、容頌はのちに「中興の祖」と呼ばれた。

容頌の時代、藩は引続き年貢の引下げにより農村の安定をはかった。また、藩士俸禄の借上げ(借知)も行ったが、財政は悪化の一途をたどり、累積した借金は安永元年(1772)で57万両にものぼった。1両=1石とすると57万石相当になり、会津藩の石高(23万石+5万石)の2倍以上の巨額の借金である。郭内講所(藩士の学問所)も廃れ、藩士の士気も弛緩していた。

■ 天明の大飢饉と寛政の改革

田中玄宰の再登用
おりしも天明2年(1782)から3年間続いた天明の大飢饉は、すでに危機的状況にあった藩財政に深刻な打撃を与えた。事態を打開するため、天明5年(1785)12月、容頌(42歳)は病気のため引退していた改革派の田中玄宰(38歳)を家老に再登用した。

寛政改革8項目
天明7年(1787)、玄宰は藩祖保科正之の遺法の主意に基づく改革大綱を建議し、容頌のバックアップの下、藩政改革を断行した。改革分野は(1)軍事、(2)教育(人材育成)、(3)人材登用、(4)経済・財政、(5)刑法、(6)身分制度、(7)賞罰、(8)町村制(民政・農政)の8項目に渡り、会津藩士の気風に大きな影響を与えた藩校日新館や「什」の創設)、農村振興、殖産興業による財政基盤拡大、藩士の身分を色で区別する紐・襟制の創設()などが実施された(寛政の改革表3-2。←改革は天明期に開始されたが多くの事業の完成が寛政期であったため。天明・寛政の改革ともいう。

改革の実施体制
改革の実施体制を整えるため、玄宰は家老の月番制を廃止して、職掌を三分((1)地方・町方・勝手方・学事方(農政・民政・財政・教育)、(2)軍事方・普請方(防衛・建設)、及び(3)公事方・公私御式方(法務・式典))して各家老の責任を明確化し、関連の役所をその下に置いた。また、人材登用を積極的に行った。改革の中核となった藩士約10名のうち、上士出身は玄宰を入れても2名で、残りは中士・下士であった。

容頌の死
改革が一段落した文化2年(1805)閏8月、容頌が62歳で死去した。しかし、6代容住【かたおき】は病のため、治世わずか4ヶ月で死去し、その後を継いだのは3歳の7代容衆【かたひろ】だった。

玄宰は、幼君を補佐しながら、引き続き改革路線を推進した。財政難を克服するため、文化3年(1806)には知行取藩士の俸禄を面扶持【つらぶち】に切り替えた。面扶持は大人一人当り5合米を給付するもので、知行渡しの場合と比べて米約4万俵(金8000〜1万両)の節約となった。

■ 蝦夷・樺太出兵

文化4年(1807)、幕府は会津藩と仙台藩に翌年の蝦夷・樺太警備を命じた。通商を求めて南下するロシアの脅威に備えるためで、会津藩にとっては初めての海防出兵であった。玄宰は出兵の部署を定め、翌文化5年(1808)1月から、雪の中、藩士を送り出した。事態が沈静化したので、3ヶ月の駐留を経て、同年末までには全軍無事に帰国した。

同年8月、藩士の帰還を待たず、玄宰は61歳で死去した。このとき藩主容衆は弱冠6歳であった。

玄宰の謚は「忠翁霊社」。墓所は小田山の山頂にある。城と日新館のみえる場所に埋葬をという遺言だったという。

(1)保科正之の基礎確立 (2)財政窮乏と寛政改革 (3)幕末期:8代容敬と江戸湾防備


表3-2:天明・寛政の藩政改革
田中玄宰の藩政改革8項目 実施された政策
1 武備充実と兵事演習 ◆軍制を河陽流から長沼流に改革
◆弓銃調練、追鳥狩(野外軍事調練)の開始
軍事奉行の設置
◆軍禁・軍役の改定
2 学校拡大と文武の道奨励 ◆藩士子弟の就学の義務化
藩校日新館(上士の子弟)(★)、町学校(中・下士の子弟)の設立 (参考:会津武家屋敷・會津藩校日新館公式HP
◆「」の創設 (★)
日新館童子訓の編纂
学校奉行の設置
3 門地に拘らない人材登用 六科糾則の令 (★)
4 財用を節して国用を足す ◆倹約令(これは前代までも度々行われた)
◆藩財政の基本を米22万俵に限定。
殖産興業の実施
・江戸に会津の産物会所設置
漆・蝋:専売制導入、漆製品の品質向上、販路拡大
薬用人参:栽培の開始、専売制導入、販路拡大
清酒:酒造方の設置、品質向上・増産、販路拡大
5 刑則を定めて裁判を平にする 仕置類寄の編纂(刑法確定)
6 上下の分の明確化 紐制・襟制・服色制の創設 (★)
7 賞罰を明らかにする
8 町村制の改革 ◆町方を上町・下町に分け、町奉行所を2箇所に設置
◆郷村・町方の5人組徹底
◆郡奉行・代官在郷による領内支配 (★)
目安箱の設置
◆離農の分限抜きと間民の規定
土地分給制(土地生産力の強弱を農民に均等に分配)

参考:『会津松平家譜』、『近世会津史の研究・上』、『会津藩の崩壊』、『幕末の会津藩』
*いつか、会津若松図書館の『家世実記』を自分で調べて書きなおしたいです・・・

(1)保科正之の基礎確立 (2)財政窮乏と寛政改革 (3)幕末期:8代容敬と江戸湾防備


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2003/1/22初出