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松平春嶽かけあし事件簿(4)元治1年(1864)

春嶽37歳、藩主茂昭29歳

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慶応1(1865)


■文久3(1863)11月〜元治1(1864)4月 再度上京-朝廷参豫・京都守護職いずれも不首尾
8月の禁門の政変によって尊攘急進派が失脚して公武合体派が政権を握ると、春嶽(36歳)は、11月に再び上京し、慶喜・容保らとともに朝廷参豫に任命された。しかし、翌元治元年(1864)1月、横浜鎖港問題で参豫会議は紛糾し、失望した春嶽(37歳)は3月に辞表を提出した。また同年2月、征長戦をにらんで陸軍総裁職に転出した松平容保に代って京都守護職に就いたが、朝廷の評判が悪く、4月には辞職して帰国した。在京期間は約4ヶ月だった。(37歳)

【関連:開国開城:参豫会議の誕生と公武合体体制の成立
■元治1(1864)5月〜慶応2(1866)閏5月 越前に閑居-第2次征長戦に断固反対
春嶽の帰国後、6月に池田屋事件(こちら)が起り、7月には長州藩が御所に攻め込んだ禁門の変(蛤門の変)が起った(★)春嶽は長州の行為を暴挙とし、「朝敵」となった長州の「征伐」にも賛成した。しかし、翌慶応元(1865)年に起った第2次征長計画には春嶽(38歳)は断固反対で、藩主茂昭と協議の上、再征反対の建白書を提出した。しかし、翌慶応2年閏5月、幕府は将軍家茂を大将にして、ついに出兵した。
(↑改元の年は改元後の年号で表記しています)

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かけあし事件簿の主要参考文献(リンク先も参照ください):『再夢紀事・丁卯日記』『続再夢紀事』
『徳川慶喜公伝』『横井小楠 儒学的正義とは何か』『人物叢書松平春嶽』『松平春嶽のすべて』『正伝松平春嶽』



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