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松平春嶽かけあし事件簿(3)文久3年(1863)

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元治1


<春嶽36歳、藩主茂昭28歳> 詳細年表(文久3)
最初の上京〜政事総裁職辞任
○初めての上京(小楠抜き)
文久3年1月22日、春嶽は将軍に先発して江戸を出立した(こちら)。公武合体派連合策(衆議による公武一致の国是決定(→大開国))を周旋するためだが、立案者である横井小楠は同行できなかった。前年末の暗殺未遂事件の際の対処が「士道忘却」だとして肥後藩の非難を受け(こちら)、春嶽の取成しで厳罰は免れたものの、身柄は越前藩預かりとなって福井に帰されたためである。

春嶽は、海路をとり、2月4日に着京すると(こちら)、既に入京していた守護職松平容保(文久2年12月24日着)、後見職一橋慶喜(文久3年1月5日着)、前土佐藩主山内容堂(同年1月25日着)らと協力して、朝廷内の穏健派である中川宮、近衛忠煕前関白、鷹司輔煕新関白(1月23日就任)らを説得しようとした。

○攘夷期限と浪士対策
京都では、長州藩を後ろ盾にした尊攘急進派の動きが先鋭化しており、頼みとする穏健派の威権は失墜していた。朝廷は、前年攘夷別勅使として東下した三条実美らを慶喜のもとに送って攘夷期限設定を頻りに迫り、押し負けた慶喜・春嶽らは、到底実行不可能な将軍帰府後20日以内の攘夷を約束し(こちら)、さらには、具体的期限を4月中旬と約束した(こちら)。浪士の暴行も相次いでいたが、急進派公卿は「暗に此暴行者を頼」み、過激な意見を主張する際の「後ろ盾」にしているようだった。そこで、春嶽は、朝廷が浪士対策を決めるよう鷹司新関白に求めたが(こちら)、反応がなかったので、慶喜・容保・容堂らと評議の上、浪士対策として、(1)脱藩者の帰藩と主のない者の幕府扶助、(2)勅諚による施行、(3)違反者は厳罰、との方針を決定し、関白に内奏した(こちら)。鷹司はもっともだと同意したが、勅諚を出すのは「脱藩有志」の志を挫きかねないと躊躇したため、対策は実行に移せなかった(こちら)。それどころか、20日には、学習院における「草莽」の建言が許され(こちら)、浪士らはますます勢いづいた。

○春嶽の政令帰一論(大政委任か政権返上か)
春嶽/越前藩は、昨今の混乱の根本原因は、政令が朝廷と幕府の二途から出ていることにあるとみた。そこで、事態の打破には、「幕府より断然大権を朝廷返上」するか、「朝廷より更に大権を幕府に委任」のどちらかに定めるべきだという政令帰一論を、所司代邸における会議で提起した(こちら)。要するに、朝廷から大政委任を改めて得ることにより、過激な言動を繰り返す尊攘急進派の勢いを抑え、その上で開国の国是を決定しようというのである。一同が賛同したため、中川宮の承諾を得た上で(こちら)、2月21日に、慶喜・容保・容堂とともに鷹司関白・近衛前関白に二者択一の決断を迫った。ところが、関白らは、もっともだとは同意はするものの、急進派公卿の「激論」やその後ろ盾となる「蔭武者」を恐れ、「威権」のない自分たちにはどうしようもないといった。それで天皇に直接判断を仰ぐために、このまま慶喜以下とともに参内して、御前会議を開くよう申し入れても、自分たちだけでは決めかねると遠回しに拒否されてしまった(こちら)。

公武合体派連合策の周旋に限界を感じた春嶽は、重臣達に進退を協議させた結果、総裁職を辞することを決めた(こちら)。3月3日、将軍家茂を大津で出迎えた際に、京都の事情を説明して、「道理に依りて事を成す」ことが不可能な上は将軍職を辞するべきであり、自身も辞職する覚悟だと述べた(こちら)。将軍入京の翌5日には改めて辞意を伝え、将軍辞職の意見書を提出した(こちら)。春嶽にとっては、大政委任がだめなら、将軍が辞職し、政権返上の覚悟を固めるしかいのである。

ところが、慶喜は、将軍上洛を機に、天皇から、攘夷の約束と引き換えに大政委任の再確認を得ようとした。3月5日、年少の将軍名代として参内すると、天皇に、従来通り委任してくれれば、天下に号令して外敵を掃除すると言上し、天皇からは、庶政は従来通り委任するので攘夷に尽力せよとの親勅を得た。しかし、鷹司関白が下付した書取りは、「征夷将軍之儀」を全て委任するので攘夷に尽力せよ、という微妙な内容で(こちら)、しかも、翌々7日に参内した将軍に鷹司関白が渡した勅書には「国事の儀、事柄ニ寄、直ニ諸藩へ御沙汰」ありという文言が追加されていた(こちら)。要するに、攘夷は将軍に任せるが、事柄によっては天皇が直接諸藩に指図するという勅書が下ったわけで、慶喜の工作は、完全に裏目に出てしまった。

政令帰一はならず、公武合体派主導の衆議による公武一致の国是決定という構想も崩れた。「奉仕之目途」を失った春嶽は、3月9日、ついに幕府に辞表を提出して、藩邸に引篭り(こちら)、11日の賀茂行幸にも随従しなかった。慶喜らが慰留したが、とりあわなかった。15日には、老中を呼び出し、できもしない攘夷の約束をして政権の延命をはかるより、将軍辞職/政権返上覚悟で朝廷に「定見」(=大開国)を奏上して、難局にあたれと説いた。老中はもっともだと同意し、慶喜とも相談すると言ったが、その後も春嶽の意見は実行されず、辞職も許可されなかった(こちら)。 相前後して、14日には、薩摩藩国父島津久光が上京したが、引篭り中の春嶽は対面すら断り、久光もわずか5日で見切りをつけて19日に退京した(こちら)。公武合体派連合策は完全に挫折した。

○総裁職解任・逼塞処分
3月21日、春嶽は、幕府の「例の優柔不断」から「際限なく引留められては迷惑」と辞職の許可を得ぬまま無断で退京・帰国した(こちら)。同月26日、幕府は春嶽の総裁職解任・逼塞を命じた(こちら)。総裁職就任期間はわずか9ヶ月であった。

未遂の同時挙藩上京計画と小楠の福井辞去
○挙藩上京・決死の言上の計画
帰国した春嶽を迎えた越前藩は、鎖港交渉が不調に終わって、万一外国船が摂海侵入した時には、挙藩上京して京都を守衛し、さらにニ・三の大藩と連携して「皇国萬安の国是」確立の建議を・周旋する方針を固めた(こちら)

一方、在京幕府は、4月20日、将軍退京(下坂)と引き換えに攘夷期日を5月10日と約束し(こちら)、22日には攘夷実行のために後見職一橋慶喜が東下した(こちら)。鎖港交渉が近日中に開始されるとみた春嶽は、せめて、その交渉を「条理」に基づくものにせんと、中根靭負を京都に派遣し、板倉老中に春嶽の意見を「演説」させた。その内容は、外国人・朝幕諸侯・草莽の大会議開催を求めるものだった(こちら)。外国拒絶という日本の国是は叡慮で決定しているが、国内だけでなく「全世界の道理」においても是となるかどうか、「地球上の全論」にかけて決定せねばならないという主張である。5月13日のことである。

ところが、関東では、老中格小笠原長行が、5月8日に生麦事件償金を独断で支払い(こちら)、慶喜は、攘夷の叡慮貫徹はとても無理だと、14日に後見職辞表を提出した(こちら)。その情報が京都に届くと、朝廷と幕府の間には深刻な齟齬が生じた(こちら)。これに対して、在京幕府は、将軍自身による攘夷実行・償金を支払った幕吏の誅戮を名目に将軍東帰を請願した(こちら)。どちらも容易に実行できぬことである。このままでは、対外的にはさておき、国内的に公武の不和を生じ、諸侯も不服を申し立て、事態がさらに悪化することは目にみえていた。

越前藩では、切迫する情勢に鑑み、外国船が摂海に侵入するのを待たずに、春嶽を先頭に一藩を挙げて上京し、外国人を交えた大会議開催・「道理」に基づく国是決定を、決死で言上する案が浮上した(こちら)。大評定の末、6月1日には、「身を捨て家を捨て国を捨る」覚悟で挙藩上京して、(1)外国公使を交えた朝幕会議による「至当の条理」の決定、に加えて、(2)朝廷の裁断の権・賢明諸侯の大政参加・列藩からの人材登用、を言上することを決定した(こちら)。しかし、慎重論を説く中根雪江の意見を容れたかたちで、まず京都に藩士を送り、その報告をもとに進発日を決めることになった(こちら)

京都では、尊攘急進派がますます勢力を伸ばしていた。5月30日には、将軍東帰・攘夷実行の勅が下され(こちら)、6月9日には、将軍家茂・板倉老中らが幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港したため(こちら)、在京の幕府要人は、守護職(会津藩)・所司代(淀藩)だけとなった。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論が一気に具体化した(こちら)。孝明天皇は攘夷親征を好まなかったが(こちら)、尊攘急進派は攘夷親征布告を頻りに迫った。

○薩摩・肥後・朝廷への周旋
京都に派遣された越前藩村田氏寿らは、在京薩摩藩・肥後藩に提携をもちかけた。両藩の賛同をとりつけると、越前藩は鹿児島・熊本に使者を送って同時上京を促す方針を固め、7月5日、春嶽・茂昭の使者として家老岡部豊後らを差し向けた(こちら)。村田は、さらに近衛忠煕前関白を訪ねて挙藩上京の藩論を説明した。忠煕はこれに賛同したが、急進派の国事掛が牛耳る朝廷の内情を語り、上京は時機を待つよう諭した(こちら)。越前藩の計画は、忠煕を通して孝明天皇にも達し、天皇はこれを「頼し」いと歓迎した(こちら)。一方、岡部らは7月末〜8月上旬に熊本・鹿児島を歴訪した。両藩は、同時上京・国事周旋に同意し、返書を託した(こちら)

○藩主の参府問題、挙藩上京計画の中止、小楠の福井辞去
しかし、この頃、既に、越前藩では藩論が一転して、挙藩上京派は失脚していた。これより先、将軍東帰により、越前藩では、藩主茂昭の7月の参府をめぐって、参府・挙藩上京延期派と参府延期・挙藩上京派が対立した。当の春嶽・茂昭は上京して国事に尽力する決意だったが、村田が、京都の情勢に鑑み、上京延期を具申したこともあり(こちら)、家老以下要職に改めて評議させたところ、参府延期/挙藩上京派の言論がかなり過激になり、7月23日、彼等は更迭されてしまった(こちら)。この結果、藩主の参府が決まり、挙藩上京は中止になった。小楠も、8月11日、春嶽・茂昭の慰留を振り切って、福井を去り、肥後に帰っていった(こちら)。岡部らの福井帰着は8月下旬であった。挙藩同時上京計画は、時機を逸し、実現しなかった。

○越前藩抜きの政変
一方、8月13日、大和行幸(攘夷親征)の詔が発せられた(こちら)、情勢は一気に緊迫したが、薩摩藩・近衛前関白らと気脈を通じていた挙藩上京派の村田らは、既に帰国・更迭されていた。薩摩藩は、大兵を擁する守護職会津藩及び中川宮と、即日手を組み、孝明天皇の了解の下、8月18日に禁門の政変を起こした(こちら)。緊急避難的に起こされた政変の密謀において、越前藩はかやの外であった。

二度目の上京-朝廷参豫就任
○薩摩と協調
禁門の政変によって尊攘急進派が失脚すると、久光が勅召により、10月3日、藩兵1万5千を率いて上京した。春嶽にも召命が下り、18日に入京した(小楠抜きです・・・)。翌日には久光が春嶽を訪ねてきた。両者は、幕府の私政脱却による公武一和、有力諸侯(慶喜・春嶽・宗城・容堂・久光)の衆議・「天理の公道」に基づく開国奏上等で意見が一致した(こちら)。春嶽は、久光と連携しつつ、有力諸侯の再上京を待った。慶喜は11月26日に入京し、相前後して、宗城が11月3日、容堂は12月28日に着京した。春嶽は、慶喜が京に着くと、春即日、彼を訪ねて京都の事情を述べると、薩摩藩との協調を説いた。慶喜は、江戸では大いに疑っていたが、疑っても無益なので、もはや疑わぬ心得だと答えた(こちら)。それからは、慶喜・春嶽を中心に、久光を含めた在京有力諸侯が集まって、国事を相談するようになった。

○「賢明諸侯」の朝議参豫
12月に入り、久光が「賢明諸侯」を朝議に加えてはどうかと提案した。公卿が優柔不断なため、いくら諸侯が提議しても実行されないためであった。一同、賛成し、薩摩藩が、朝廷から沙汰が下りるよう周旋をすることになった(こちら)。その結果、12月30日に慶喜・春嶽・容保・容堂・宗城を朝議参豫に任命するとの沙汰が下りた(久光は翌元治1年1月13日)。 以後、参豫は、朝議に参加し、公武合体派・雄藩の代表が国政の重要事項の決定に関与することになった(こちら)。

○慶喜の「創業」の意思確認二条城会議
春嶽は、かねてから、「国家永遠の治安」を期すには、「従来の幕習を脱却」した「時勢に適する政体」の確立が必要だと考えていたが、幕習脱却には老中・諸有司が猛烈に抵抗することは目にみえており、その成否は慶喜の方針次第だと考えた。そこで、薩摩藩の裏工作が進む中、慶喜を訪ねて、慶喜の方針は「創業」か「中興」かと迫った。慶喜は、幕習を脱した「創業」を方針にすべきだ回答し、また、「創業」の基本は在京諸侯との衆議の上確定すべきだとの春嶽の意見にも同意した。相談の結果、二条城を諸侯の集会所とし、国事を協議することになった(こちら)

未発に終わった挙藩上京計画で越前藩が構想していた改革の一つ、「賢明諸侯」の大政参加が、朝・幕双方で実現しつつあったといえる。この幕習を脱却した「創業」の枠組は、慶喜の同意の下、形成されたものであった。しかし、翌元治1年1月、将軍・老中らが再上洛すると、板挟みになった慶喜が揺らぎ、枠組に亀裂が生じることになる。

【関連:開国開城:後見職・総裁職入京/公武合体策挫折と攘夷期限 将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌 参豫会議の誕生と公武合体体制の成立
(2003.7.20、2012/5/3、5/14)

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元治1(1865)


主要参考文献(リンク先も参照ください):『再夢紀事・丁卯日記』『続再夢紀事』『徳川慶喜公伝』
『横井小楠 儒学的正義とは何か』『人物叢書松平春嶽』『松平春嶽のすべて』『正伝松平春嶽』


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