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<小史> 水戸藩主後継問題 徳川斉昭(烈公)は御三家の水戸7代藩主治紀(はるとし)の三男として、寛政12年(1800)に誕生し、会沢正志斎(水戸学の権威)に教育を受けて育った。実兄・8代藩主斉脩(哀公)が病弱で、世継ぎをめぐって、斉昭を推す会沢・藤田東湖ら軽格・藩政改革派と、将軍家斉の子・清水恒之丞を推す門閥・保守派が激しく対立した。斉脩の遺言により、文政12年(1829)、斉昭が9代藩主に就任した(30歳)。 天保の藩政改革 斉昭は、東湖・戸田銀次郎ら軽輩出身の藩政改革派の人材を登用して、翌天保元年(1830)より藩政改革を断行した。質素倹約、軍備充実(砲台建設、銃隊軍制、農兵制度、大規模軍事演習等)、学校建設、財政再建、農村対策(領内総検地)、寺社改革等が行われ、幕府や諸藩の天保期の改革に影響を与えた。その一方で、幕府に対して綱紀刷新、山陵修復、蝦夷開拓、大船解禁等の建議を行った。しかし、藩内の寺社改革は仏教排除色が強いもので僧侶の反発を呼び、僧侶と改革を喜ばない門閥派とが連携して斉昭の失脚を画策した。弘化元年(1844)、斉昭は「驕慢」を理由に隠居・蟄居謹慎を命じられ(45歳)、東湖らも失脚して藩政改革は頓挫した。しかし、家臣・領民の猛烈な雪怨運動が起り、同年末、斉昭の謹慎は解かれた。 首席老中阿部正弘の接近 斉昭の謹慎は解除されたが藩政への参与は許されなかった。この間、斉昭は実姉の嫁ぎ先である関白鷹司政通を通じて朝廷に接近し、蘭学研究も進めた。また、隠居の身分ながら、首席老中阿部正弘や将軍家慶に、異国船打払、大砲・大船(軍艦)建造、蝦夷・琉球処置等に関する海防意見を数度に渡って建言。斉昭の意見はおおむね将軍や阿部のめざすところと一致しており、重用された。また、薩摩藩世子島津斉彬、宇和島藩主伊達宗城らと海防意見を交換した。(★開国開城) 幕政に参与 嘉永6年(1853)、ペリーの浦賀来航後、幕府から海防参与に任じられると、斉昭は海防10か条を建議し、和戦一決と大船建造を主張した(54歳)。日米和親条約の締結後、海防参与を辞任したが、海防に関する建議は続け、また軍制改革、幕政改革に参与した。ところが、安政2年(1855)10月の大地震で腹心の東湖・戸田が死去し、さらに首席老中阿部が突然辞任した。その後に首席老中についた開国派の堀田正睦とは合わず、斉昭は、安政4年(1857)7月、参与を退いた(58歳)。(★開国開城) 将軍後継問題と条約勅許問題 前後して、13代藩主家定の後継をめぐり、一橋派(斉昭の実子一橋慶喜を推す派)と南紀派(紀州藩主慶福(のちの家茂)を推す派)の争い(将軍後継問題)が激しくなり、また日米通商条約勅許問題も起った。安政5年(1858)5月、南紀派の彦根藩主井伊直弼が大老に就いて幕府を掌握した。同年5月、将軍後継には慶福(家茂)が指名されて一橋派は敗北し、6月、幕府は勅許なしで条約に調印した(違勅調印)。(★開国開城) 斉昭の謹慎・永蟄居と死没 翌6月、斉昭は一橋派諸侯とともに登城して大老井伊直弼(彦根藩主)を詰問したが、逆に、翌7月、不時登城を理由に謹慎に処せられた(59歳)。一方、条約調印に激怒した孝明天皇は8月、水戸藩へ密勅(戊午の密勅)を下したが、井伊はこれを水戸藩(斉昭)による幕府転覆の陰謀とし、水戸藩に密勅返納を命じるとともに、密勅降下関係者及び一橋派の徹底弾圧にのりだした。翌安政6年(1859)8月、家老安島帯刀らが処刑され、斉昭は水戸に永蟄居を命じられた(安政の大獄)。(★開国開城)(★詩歌) 水戸藩尊攘派の怒りは高まり、万延元年(1860)3月、藩士ら18名が、大老井伊の暗殺を決行した(桜田門外の変)。事件から5ヶ月後の8月、斉昭は、蟄居処分を受けたまま水戸で病没した。享年61歳。(★開国開城)(★詩歌) 斉昭の死後、藩内の改革派と門閥派は激しい党争を繰返し、元治元年(1864)には改革派から派生した尊攘激派(天狗党)が筑波山に挙兵して、いわゆる天狗党の乱が起こる。水戸藩は尊王攘夷運動に大きな影響を与えながら、藩内抗争と天狗争乱で人材を失い、水戸出身の将軍慶喜を積極的に支えることもできず、幕末の主役とはなれなかった。新政府にも出仕できる人材がほとんどいなかったそうである。 |