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文久3年4月13日(1863年5月30日)
【江】清河八郎暗殺

■浪士組と清河八郎
江】文久3年4月13日夕、清河八郎は、浪士組取締役並出役(講武所教授)佐々木只三郎・逸見又四郎・高久半之助らに暗殺されました。出羽上山藩邸の友人金子与三郎宅に招かれて帰宅途中でした。享年34歳。

明治33年の石坂周造の談話によれば、向こうからやってきた速見らが、「ヤァ先生、何方へお出でなさる」といって丁寧に陣笠を取って挨拶したので、清河も陣笠を取って挨拶しようとした、そこを、前後から斬りかけられたそうです((『史談会速記録』)。史談に同席していた寺師が佐々木只三郎から直接聞いたという話でも刺客は3人だったそうです。(『修補殉難録稿』では、刺客は佐々木・逸見・高久の外、久保田(窪田)千太郎・中山周助・家永某(徳永昇?)とされています。外にも6人説はありますが、微妙にメンバーが違います)。

清河の暗殺には、彼らの横浜居留地焼き討ち計画を知った老中の内命があったといわれています(滞京中の首席老中板倉勝静説・留守老中水野忠精説・生麦償金交渉に帰府したばかりの老中格小笠原長行説、と諸説あります)。

<ヒロ>
○東帰から清河暗殺にいたるまでの経緯

浪士組は、3月3日に関白鷹司輔熙から攘夷戦争に備えて東帰せよとの達しを得て(こちら)、同月13日に京都を出立し(こちら)、28日に江戸に戻っており、本所三笠町の小笠原加賀守邸を屯所としていました。(清河と行動を別にし、京都に残留したのが芹沢・近藤らの壬生浪士組こちら)。

ところが、幕府は、朝廷に破約攘夷を約束するはめになったものの、もともとが開国論であり、浪士組東帰後も、江戸の幕閣は破約攘夷実行の気配を見せませんでした。ちなみに、4月6日には生麦償金交渉のために老中格小笠原長行が(こちら)が、11日には将軍目代の水戸藩主徳川慶篤が家老大場一真斎らと江戸に到着しています(小笠原は開国論ですが、水戸勢は攘夷戦争やる気まんまんだったはずです)。明治33年の高橋泥舟の談話によれば、高橋は留守老中の水野忠精に攘夷を何度も迫ったそうですが、水野は高橋の意見を全く用いず、終いには「板倉が何と申そうが将軍が何と言おうが留守居は留守居の権利があると云うので、私はそれはどうも間違いであろうと、上方と東京との老中が斯様に喧嘩をするようでは天下の政治は出来まい。以ての外の了見違いであると云うことを大議論」したとか(『史談会速記録』)。このように、破約攘夷(生麦償金拒絶による開戦)が実現しそうもないので、清河は横浜居留地襲撃することを決心したようです(元治元年の天狗党の筑波挙兵を彷彿させますよね)。

さて、横浜攘夷には軍資金集めが必要で、清河の古くからの同志石坂周造らは近在の豪商に金策をしました。また、爆裂弾を中心とする兵器も製造し、伝馬船・梯子等も秘密裏に準備したようです。東帰浪士組が、攘夷先鋒を名として豪商を掠奪し、乱暴行為を働いたようにいわれることがあります(『維新史』など)が、小山松勝一郎著『清河八郎』では、これらの悪行は、偽浪士の仕業だと説明されています。偽浪士を捕縛した清河らが取調べを行うと、老中格小笠原長行の命を受けた勘定奉行小栗忠順が、浪士組の悪評を流すために、彼らに迷惑行為を指示したのだ自白したそうです。浪士組取締の高橋泥舟が登城して小笠原らを詰問すると、町奉行所で預かって吟味をするという・・・幕府の機関である奉行所で事をうやむやにされてはならじと、清河は偽浪士を斬首・鳩首させたといいます。(出典不明。残念なことに、『清河八郎』は出典不明な箇所が多いのです。この下りは、まだ出典を確認できていません)。

このように幕府と清河/東帰浪士組の間には緊張が高まっていたようです・・・。しかも、この清河らの横浜襲撃計画は、幕府の知るところとなり、暗殺の内命が下されたようです。(暗殺した側の記録は残っていませんので、正確なところはもちろんわかりません)

○明治30年代の史談会証言にみる清河暗殺の原因

中村維隆(草野剛三)(明治36年)
「其暗殺の原因と云うものは彼處に金子与三郎と云う松平山城守の家来で矢張儒者がございました、是は清川等と同窓でございませんが相並んで立った儒者で随分鳴らした男でございます、是が我々の攘夷党へ連名すると斯う云うことに付いて清川が十三日の朝山岡鉄太郎の所から連盟帳を懐中して出ます所へ私が参って何處へ行くと言った所が、今金子与三郎の處へ行くのだと云うた。是が愈々同意することに付いて、今日は行って血判をさして仕舞うと云うことにて、それはそれなら宜いが、何にせい厳しいから意を注げて御出でと云って、私は其時分には馬喰町に居りましたが、日暮れ

石坂周造(明治33年11月)
石坂「是れ(金子が清川を招いたこと)は山城守の方へ頼みになって山城守が金子に伝えたに相違ない」
石坂「(暗殺は板倉勝静の内命があったのかと尋ねられて)左様です」

高橋泥舟(明治33年12月)
高橋「(横浜襲撃計画について)其時は私は黙って居りました。私は一緒に遣る訳には参りませぬで、私は仕方がないから腹切るより外はないと決心して居りました。横浜へ斬込むと云うのは正義の者のすべき事ではないと云う事を申しましたが、一向夫れを聴入れませぬで、討込みましたから止を得ない、私は腹を切って言い訳をするより仕方ないと思って黙って居りました。其時に石坂あたりはやり掛けたほうでございます。私は知らない顔をして居るほうでございました」
石坂「夫れを幕府に密告したのが松平上総介と云う奴でした」(これは石坂の想像でしょう)

高橋「是れ(=金子)は私は懇意にしませぬが鉄太郎などは懇意に致しました。是れは欺れた一人でございます。此男は清川と一度相弟子でございます・・・(中略)・・・是等が清川を殺して了はなければ幕府の為に成らぬと云うので老中などに言って事を為した」(ただし、高橋の推測でしょう)。

寺師「清川氏攘夷ということを幕府に就いてやろうという趣意であったのですか」
高橋「左様其の一心に留ったのですナ。自分でやりたくも自分では力がありせぬから」

中村維隆(草野剛三)の話(明治36年)
「金子与三郎の為で、清河は嫌疑を受けない中から金子与三郎とは懇意らしかった。金子或は藤森などと今の聖堂で一緒にやったのですな。・・・金子の家へは始終訪うて居た。愈々自分が潜伏する時分にも金子を訪うて居た。始終金子と親しくして其当時の形勢を論断して、金子も其時分の儒者ですが、普通の儒者ではなかったと見える。徳川の幣があるということは知って居った。付ては王命を奉じて攘夷鎖港の事をやって行かなければちっともいかぬということを知って居った。清河と相合する為に、清河は非常に信用して居った。殊に自分は潜伏中にも折々訪ねて互いに心を打ち解けて話が出来た。然るに四月の十三日に殺されたのは、其前に清河と山岡と其外久保田治郎右衛門(=窪田治部右衛門)の息子の久保田仙太郎(=窪田千太郎)等が横浜へ行って、久保田が取調役をして居たのでしょう。外国の様子を巨細に聞取って見てきてから報告に行く。ドウも異人館などを打壊すのは訳はない。そうして愈々攘夷の旗を立てた上になれば、随分随行する者もあるだろう。人数を引き連れて京師へ行って自分等の精神を申立てようと云う話なんで、それで私等も好い機会だからやろうと云うことになって、そこで其の前から種々秘密の書類を金子に預けてあるが、又外の書類を清河が持って行くと云う。それは行くのは悪いと云って止めた。和田理一郎は君子的の男で何を見ても泣くというような人で総て少し感ずることがあると泣いて物を言うような男であった。今にも異人でも斬るかというような勢いをして居るので、其自分に四尺ばかりの刀をはき、そうして又大小を帯して鉄扇を持って威張って居る男である。其男が非常に止めた。それを遮って聞ないで行った。其の前に愈々攘夷を決行する積りだ。付ては金子の主人は御老中をしておった水野さんで(=誤り。上山藩主は藤井信庸。水野は出羽山形藩主)、どうか主人公にも種々言って呉れと言って頼んだが到底行われない。行われなければ自分等は断行する。已むを得ないから断行すると云うことを言った様子です。それで再び行くと云うから悪いと云って止めた。併し自分は金子とは水魚の交りだから大丈夫だと云って出掛けて行って殺されたので、書類を持って金子の所へ行くと、スッカリ幕府で手を廻して殺して仕舞った。実に気の毒な死を遂げたのです」

「虎尾の会」同志・浪士組石坂周造の談話
「五百名ほどが横浜へ乱入する、それには目印として何か赤い物でも付けて、赤い陣羽織でも着たら宜しかろうと斯う云う。随分是れは危険な話で夜盗までやろうと云った。そう難儀をしたのでござります。それからそれは如何にも面白い、茜の陣羽織を着るということは昔家康公が茜の陣羽織を用いたことがあるから大きに宜かろう。その陣羽織を用いるには千五百両掛る其の金がない。千五百両位の金が尽忠報国の党が大義をなそうと云うに、それ位の金が出来ぬと云うことは無かろうと云って、段々評議をした所が、国家の為にするところ、奸商を脅かして取ろうと云うて中には暴論がありました。今日考えますると大変な暴論でございますが、其時分の考えではそれが相当な考えですな。自分等が一身を犠牲に供して国家のために尽すので、何で横浜あたりに居って外国人を瞞着して得た所の金は、どうしても、そういう物をとっても宜い、斯ういう論者がございました」(明治34年)→結局、脅迫行為はやらなかったと談話は続きます。

浪士取締役だった高橋泥舟の談話(明治33年)


庄内藩士次男(文久3年当時7歳)だった俣野時中の談話(明治29年)

○同時代史料「清川八郎逢切害候始末書写(風説書あるいは探索書?)」『官武通紀』

前に真偽不明とご紹介した始末書写によれば、清河暗殺の経緯は以下に要約するとおりです。

3月16日、取締役並出役速見又四郎、長州の清河八郎宛密書を入手(こちら)
4月2日、清河の「悪事の手立荒増」が幕府に知れる。
4月7日、京都の老中板倉勝静から浪士組取締役並出役速見又四郎(出役はすべて講武所教授。佐々木只三郎もその一員)に清河暗殺の密命が届き、速見は佐々木と申し合わせ、翌8日から狙い出したが、清河は外出時には、五人の警護をつけて用心していた。(こちら)
4月12日、清河が、「手下浪人近国に隠置候者へ申触れ候て呼寄、八郎大将にて二百五十人計、同月十五日江戸並横浜を焼打にいたし候て、京へ登り、京浪士と心を合せ、長州と一手になり、ニ条へ打入り候手配承出候儘」、捨て置くことができず、速見・佐々木は本所屋敷の近所で張り込みをする。
4月13日、昼八ツ、清河が密事で一人で門外に出たところを、速見・佐々木が見かけて道連れとなり、一の橋で、速見が抜打ちに後ろから討取った。速見は斬り捨ててそのまま老中・目付に報告し、残りの「悪人」の捕縛を願い出た。

■暗殺される前−死を予感していたともとれるような清河の行動

暗殺当日、この日に限って護衛をつけずに単身でかけた清河は、実は前夜から当日にかけて、家族・知人に遺書・辞世ともとれるものを残しています。偶々なのかもしれませんが、一説に、清河は3月15日に横浜居留区襲撃を計画していたといいますので、もしかすると、親しい者への訣別の挨拶のつもりだったのかもしれません。なお、『清河八郎』著者の小山松勝一郎氏は、清河が護衛をつけずに出かけたのは、浪士組横浜襲撃を中止させるために殺されるつもりだったという面白い解釈を示されています。 (→「覚書:清河八郎(1)暗殺と木鶏の精神?」)

<ヒロからの伝言>
★横浜襲撃計画の目的は何か、攘夷先鋒か、討幕か、討幕の場合に幕臣の泥舟・鉄舟・水戸藩激派との関係はどうなるのか?長州藩とは連携していたのか?など、興味深いことはいっぱいあるのですが、これは、清河の浪士組結成意図は何だったのか・・・に深く関ってくることだと思います。清河コーナーにも書いたのですが、浪士組結成の経緯については、清河や松平上総介が松平春嶽に提出した建白書や幕府の反応に関する記録が『清河八郎遺著』にも『続再夢紀事』にも載っておらず、どうにも考えがまとまらないでいます。図書館等に問い合わせて探求中ですが、まだ見つかりません。見つかれば、ゆっくり考えていきたいと思います。もし、これらの史料の所収先をご存知の方がいれば、ご一報いただけると大変ありがたいです。

★金子与三郎が清河八郎暗殺に関与したかどうか、これも、はっきりしたことはわからないようです。清河暗殺当日の金子に関するエピソードを、余話にのせたいと思っています。

関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館) ■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題

参考:『史談会速記録』、『旧幕府』、『修補殉難録稿』、『官武通紀』、『維新史』、『清河八郎』(2002.5.29, 2004.5.30)

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