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文久3(1863) |
<要約>
幕府にとって文久3年前半最大の外交懸案は前年8月に起きた生麦事件の償金問題である。2月、英国公使は横浜に艦隊を派遣して幕府と薩摩藩に償金の要求をした。幕府には種々議論があったが、老中格小笠原長行の決断で、5月、10万ポンドの償金を支払った。なお、薩摩藩は英国の要求を拒み続け、7月に薩英戦争が起った(A.生麦償金交付) 生麦事件償金を独断で交付した老中格小笠原長行は、同月下旬、英艦を借りて武装兵約千数百名を率いて乗船し、海路大坂へ向った。武威をもって攘夷の朝議を一変しようとしたのだという説、足止めされている将軍を迎え取るためだという説、英仏両国の軍事援助計画に支援された打倒尊攘急進派クーデターだったという説がある。6月、大坂に上陸した小笠原は入京を目指すが、将軍から入京を見合わせるようとの命令が下り、率兵上京は頓挫した(B.小笠原の率兵上京)。 |
幕府/京都 | 将軍:家茂 | 後見職:一橋慶喜 | 守護職:松平容保 |
首席老中:水野忠精 | 老中:板倉勝静 | 所司代:牧野忠恭 | |
幕府/江戸 | 将軍目代: 徳川慶篤(水戸) |
老中格小笠原長行 |
朝廷 | 天皇:孝明 | 関白:鷹司輔熙 | 国事扶助:中川宮 | 参政・寄人:三条実美ら |
◆生麦事件償金交渉幕府にとって、文久3年前半の外交懸案は前年8月に起きた生麦事件の償金問題だった。2月19日、英国公使は幕府に対して謝罪と10万ポンドの償金を要求した。さらに艦隊を薩摩に派遣して直接薩摩藩と交渉し、犯人の捕縛と斬首、及び償金2万5千ポンドの支払いを要求することを通告した。回答が得られなければ適宜必要な措置をとる・・・と順次横浜に入港した8隻の艦隊の威力を背景にしての要求だった。将軍は上洛のため2月13日に江戸城を出発しており(こちら)、留守老中らは飛脚を飛ばして指示を請うことにした。将軍に随行していた水野・板倉老中は、この件については将軍上洛後に後見職・総裁職と話し合うので、回答延期を交渉するよう命じた。交渉の結果、英国公使は支払い期限を5月3日とすることに同意した。 ◆老中格小笠原の生麦事件償金交付生麦事件の処理は幕府にとって大問題だったが、将軍東帰の勅許が得れられないので、将軍名代・水戸藩主徳川慶篤、及び老中格小笠原長行が3月下旬に生麦事件処理(破約攘夷)のため帰府を命ぜられた。 江戸では種々の議論があったが、4月21日になって、ようやく償金支払いと決した(こちら)。表:生麦償金処理に関する幕府内の議論
一方、在京幕府は、4月20日、攘夷期限を5月10日と布告することとひきかえに将軍退京(下坂)及び将軍後見職一橋慶喜東帰の許可を得た(こちら)。22日、慶喜は「鎖港攘夷の実効」をあげることを名目として、帰府の途についた。慶喜は道中、破約攘夷と償金拒絶の指示を出したので、江戸の幕閣は混乱に陥った。償金交付期日当日の5月3日になって、担当老中小笠原の病気を理由に支払延期を要請したが、激怒した英国側は3日の猶予をもって戦争に入ると通告し、戦闘準備を始めた。8日、老中格小笠原長行は海路、横浜に赴き、独断で生麦事件の償金交付を命じた。 この日、慶喜は横浜に入って神奈川奉行所の説明をきいたが、にわかに「思うことがあり、今夜中に江戸に入るつもりである。馬はないか」と言い出し、近習4〜5名を従えただけで江戸に駈け去った。小笠原の乗った汽船が横浜に入港したのは慶喜が出立してまもなくだったという。このことから慶喜と小笠原の間には黙契があったのだとされている。 実は、慶喜は償金支払はやむをえぬと覚悟しており、在京中に鷹司関白・中川宮にも支払いについて内諾を得ていたという(『昔夢会筆記』)。『徳川慶喜公伝』では、破約攘夷や償金拒絶を老中に指示したのは表面上のポーズにすぎず、16日間というゆっくりした旅程も、約攘夷を掲げて東下する慶喜帰府前に生麦事件の償金支払いを完了させようとの意図からだとしている。 ◆慶喜の後見職辞表慶喜は5月9日に登城して鎖港攘夷の勅旨を伝えて談判開始を指示したが(こちら)、わずか5日の14日には後見職辞表を関白に送り、そのむね幕閣に伝えた。老中を始めとして破約・鎖港攘夷に誰ひとり同意するものがなく、実効はあがらないというのが理由である(こちら。関連■テーマ別文久3「生麦事件償金支払&第一次将軍東帰問題」 |
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薩英戦争 英国は前年の生麦事件の下手人引渡しと償金支払いを幕府と薩摩に求めていた。5月、幕府は、老中格小笠原長行の決断で償金を支払ったので、英国は、次に薩摩と直接交渉するため、6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。交渉が行き詰まる中、7月2日、英国艦が薩摩藩船を拿捕したのがきっかけとなって薩摩藩が砲撃を開始し、戦端が開かれた(こちら)。損傷を受けた英国艦隊は、同月4日に鹿児島湾を去った。その後の薩英間の交渉で、11月1日、薩摩藩は償金を支払ったが、英国から軍艦の購入を果たした(こちら)。 |
幕府/京都 | 将軍:家茂 | 後見職:一橋慶喜 | 守護職:松平容保 |
首席老中:水野忠精 | 老中:板倉勝静 | 所司代:牧野忠恭 | |
幕府/江戸 | 将軍目代: 徳川慶篤(水戸) |
老中格小笠原長行 |
朝廷 | 天皇:孝明 | 関白:鷹司輔熙 | 国事扶助:中川宮 | 参政・寄人:三条実美ら |
◆老中格小笠原長行の率兵上京5月19日、生麦事件償金交付を朝廷に弁明するためとして、老中格小笠原長行が慶喜の命により上京の途についた。小笠原はすぐには京都へ向かわず、横浜に滞在し、28日にひそかに英艦を借り、歩兵と騎兵を合わせて約1,600人を率いて乗船し、海路大坂へ向った。 小笠原の率兵上京といわれる軍事行動である。率兵上京の真の目的は、武威をもって攘夷の朝議を一変しようとしたのだという説、足止めされている将軍を迎え取るためだという説、英仏両国の軍事援助計画に支援された打倒尊攘激派クーデターだったという説(往年の京都武力制圧計画の実現)があるが、確かなことはわかっていない。ただ、小笠原はのちに公卿の中に内応する人がいたので上京したがその人が不慮の禍害を受けたため蹉跌したと語ったとされており、この頃暗殺された姉小路公知(今日:朔平門外の変」)とはかるところがあったと推定されている。また、後年慶喜は、小笠原の率兵上洛を批判し、無関係を装っているが、実は小笠原ともに上京する予定だったという(こちら) ◆朝廷尊攘急進派の驚愕と在京幕府の小笠原入京阻止小笠原は6月1日(5月30日説あり)に着坂し、上陸した。前後して、小笠原が率兵して京都の武力制圧に向かったという噂が朝廷に届いた。この噂をもたらしたのは、慶喜が鷹司関白に派遣した使者、水戸藩士梅沢孫太郎である(「こちら)。朝廷は大いに驚愕し、京都守護職松平容保に小笠原の上洛阻止を命じた。 梅沢の風説書をみせられた容保は愕然とし、急遽二条城に報告の使者を出したそうである。(こちら)大坂に率兵上陸した小笠原は、入京をめざして淀に入ったが、京都からは、次々と入京制止の使者が送られてきた。小笠原はそれらを説破し、なおも入京しようとしたが、4日、ついに、将軍家茂が直書を下して入京中止を命じた。家茂の直書の大意は、「余がためにとて為すことの、存外不為のことのできたらんには宜しからず、よりて御所へ言上の上、呼び寄するまでは、入京を見合すべし」(『徳川慶喜公伝』より)だったという。将軍直々の命令を押し切るわけにもいかず、小笠原はついに率兵入京を断念した。 慶喜−小笠原の率兵上京計画は、将軍や守護職といった在京幕府との連携がつかず、頓挫してしまった。しかし、いわば副産物として、3日、足止めされていた将軍の東帰の勅許が得られ、9日に将軍は退京・下坂、13日に大坂を出港して、16日に約40日ぶりに帰府した。 ◆小笠原処分朝廷は、小笠原は生麦事件の償金を独断で交付し、あまつさえ率兵上京して攘夷の叡慮を翻そうとした不届き者として厳罰に処するようにとの沙汰を下した。幕府は小笠原の老中職を免じ、大坂城代預かりとした。さらに、処分を江戸で評議することが許されたので、小笠原を7月10日に東帰させた。江戸の幕閣は小笠原には同情的だったので、厳しい処分は行われなかった。関連■テーマ別文久3「第2次将軍東帰問題&小笠原長行の率兵上京」 |
加茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争 将軍東帰と守護職の孤立
(2001/8/11)
<主な参考文献>
『続再夢紀事』・『官武通紀』・『大久保利通日記』・『会津松平家譜』・『七年史』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『開国と幕末政治』・『大久保利通』・『徳川慶喜増補版』 |
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