(2002年5月21日の「御陵衛士休息所」より)
NHKスペシャルを見ていたら、NYテロで救助活動にあたった消防士さんたちの間にPTSD(心的外傷後ストレス障害)としてsurvivor's
guilt(生き残った者の罪悪感)がみられるという話がありました。救助活動する中で消防士数百名が亡くなっており、自分が生き延びたこと、仲間を助けられなかったことがひどく精神的重圧になっているが、普段マッチョな消防士で他人に頼ることを恥とする気風があり、よけいに苦しみを抱え込むのでケアが必要だ・・・ということでした。
盟主と慕う伊東甲子太郎が新選組に暗殺され、その遺体の引取りに赴いた同志が待ち伏せの新選組に襲撃された油小路事件・・・事件当日に鳥撃ちに出かけて不在だった阿部十郎・内海次郎らの事件を知ってからの行動をみると、現場にいることができず生き残った者ゆえにだなぁ・・・思っていたのですが・・・NHKスペシャルをみて、survivor's
guiltとの闘いという面もあったのかもしれない・・・と思いました。
油小路事件の報をきいた阿部・内海がまずしたことは、薩摩藩や土佐藩に保護を求めることではなく、月真院に向ったことでした。新選組に占拠されているだろうから突入して仇を撃つつもりだったんですよね。もちろん命は捨てるつもりでした。誰もいなかったので油小路に赴いたけれど、ここでも新選組は朝食にひきあげていなかった。ならば屯所に斬りこむつもりでいたら、普段から使っていた目明しに諭されて、「ここで犬死しては(衛士が全滅しては)、後世、(歴史を枉げて)どのように悪くいわれるかわからない」と考えなおして、戒光寺を頼って潜伏。そこでもまずしたことは、油小路に晒されたままの伊東・藤堂平助・服部三郎兵衛・毛内監物の遺骸の収容を戒光寺の長老に依頼することでした。しかし、遺体を囮にして残党をおびきよせることを考える近藤は、同志の者にではくては遺体は渡せないと拒絶・・・。遺体の引取りと葬儀をあきらめた阿部らは、ここでようやく、自分たちの身の安全を真剣に考え、土佐藩邸に保護を求めに出かけました。
この時点では他の同志の安否もまったくわからず、ものすごいストレスだったと思います。近藤妾宅に出かける伊東を強くひきとめていれば・・・自分たちが月真院に居合わせて現場に向っていれば・・・との思いは増していく一方だったのではないかしら・・・。阿部は鉄砲撃ち(砲術師範)でしたし。鉄砲があると少しは情況もかわったかもしれない。内海は伊東道場の師範代。剣はできただろうし。内海は伊東の弟子で伊東について上洛してきた人物だから、大事なときに師の役に立てなかったことを悔いても悔いても足らなかったのではないかしら・・・。
12月18日に、阿部・内海・佐原太郎は新選組の沖田総司を襲撃に出かけますが、この3名は、油小路当日に現場にいなかった3名なんですよね。是非、この3人で行かせてくれ・・・と他の同志に頼んだのではないかしら。しかも、この日は伊東らの祥月命日でした。偶然でしょうか。
わたしは、12月中旬に中村半次郎から外出許可がおりたことに注目したいと思うのです。衛士残党は伏見の薩摩藩邸に潜伏していましたが、新選組も伏見にやってきていました。この時期になぜ危険を冒して外出を?・・・阿部らが、祥月命日までに復仇を遂げたくてせっついたのではないでしょうか。
昔、沖田ファンだった頃、沖田を襲撃した阿部たちの印象は悪かったのですが、逆の立場からみることができるようになると、復仇にはやる気持ちがせつないほどわかる気がするから、おもしろいものですね。(病床にあった沖田にとっても、剣をとって闘死できる最後のチャンスだったと思うと、襲撃されたときに不在だったのはラッキーだったとばかりいえるのかな・・・とも思うのですが、これは別の話ですね)。
関連:
慶応3年11月18日-伊東甲子太郎、新選組に暗殺される
慶応3年11月19日未明-油小路の闘い
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