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慶応3年11月19日(1867年12月14日)−II
油小路事件(4)油小路事件始末


慶応3年11月19日(1867年12月14日)。前日夜に新選組に暗殺された御陵衛士隊長伊東甲子太郎の遺体を引取りに七条油小路に向った衛士たちは、19日未明、待ち伏せの新選組に襲撃され、藤堂平助・毛内監物・服部三郎兵衛の3名が闘死しました(伊東暗殺/油小路の闘い)。亡くなった伊東・藤堂・毛内・服部の遺体は、囮として、七条油小路の辻に放置されました。

同日、新選組へは、油小路出動に際して17名に一両ずつの報奨金が支給され、会津藩から4名の葬儀料20両が下されました。(「金銀出入張」)。

しかし、新選組に追われて身の置き所のない生き残りの衛士たち、そして衛士たちの家族や友人にとって、闘いはまだ終わっていませんでした・・・。

■油小路で包囲を斬りぬけた篠原―桂宮家権太夫尾崎刑部の屋敷に匿われる

★新選組の包囲を斬りぬけた篠原は、今出川の桂宮家権太夫尾崎刑部の屋敷を訪ねて闘いについて説明し、しばらく休ませてほしいと頼んだところすぐに承諾して2階にあげてくれた。そこへ、四つ(朝10時)頃、賊(新選組)6〜7名がやってきて、「篠原が潜伏しているだろう。引き渡せ」と言ってきた。尾崎は「昨日きたが、そのごは来ていない。疑うなら家中を調べてもいいが、主人である宮家にこのことが達すると後日、さしさわりがあるかもしれない。宮家に許しをえるまで待ってくれ」と答えた。賊はこの疑いに答えを晴らしてその場を去った(篠原泰之進あるいはその息子の手記『秦林親日記』より要約)

関連:「女達の油小路事件:篠原の妻」

■油小路で包囲を斬りぬけた加納・三樹・富山―薩摩藩に保護される

★「新撰組 三樹三郎、加納道之介、富山弥兵衛早天に大久保一蔵(利通)処へ来り、拠ん所なく急用出来候付、御目に懸り度しなどの事、申し入れ候に付、拙者長屋へ列来候て、篤と承り届け候ところ、余儀無き子細にて候、尤も彼の曰、夜前私(三樹)ども頭、伊東甲子太郎儀、新撰組同にて内果てに候に付、死体跡仕末方として加納道之介、篠原秦介、罷り越し候ところ、同新撰共より、むたいに切り掛り候に付、時暫く相戦い申し候ところ、三人は打ち果て、私と篠原、切り抜け候事にて全伏の事、歎願に付、直様大久保士申し入れ候ところ、何れ余儀なき次第に候間、召し入れ置き候様取り計らうべしなどの事に候、夫れに付、三樹三郎、加納道之介、富山弥兵衛是等を永山、山田、吾舎弟同行にて列越し候事」(中村半次郎「京在日記」。『誰が竜馬を殺したか』引用の読み下し文より。読み下しは「田島秀隆編、鹿児島県教育互助会印刷」)

★加納は油小路で斬りぬけてから北へ向かうも他にいくところもなく、薩摩藩に知人はいないものの、同藩に投ずるほかないと思っていた。醒ヶ井通りを走っていると、川向こうを走っている人物がおり、敵だと思ってにらみあいながら走っていると、それが薩摩出身の富山弥兵衛であった。一条通りで合流すると、そのうち三樹三郎も一緒になり、夜三時〜四時ごろに今出川の薩摩屋敷に到着した。しかし、門番がなかなか起きてくれず、再三門をたたいたら、「何用か」というので「中村半次郎」に会いたい」というと「夜があけてからでなおせ」という。そこで、仕方なく「御藩にはうらみはないけれども、われわれは天下に身をよせるところがない身なので、(切腹して)御門前を汚します」というと、驚いた門番は「そういう馬鹿なことをいうか」と中村に会わせてくれた(元御陵衛士加納道広談『史談会速記録』より要約)

*薩摩藩今出川藩邸は御所の北側に位置する相国寺にありました。

■不在で油小路に参戦できなかった阿部・内海―土佐藩に保護を求めるが拒否される

★「今夕広大寺に住む御陵守りの新撰の内阿部十郎に今一人河原町御邸へ駆込、御聞番へ申出候は、昨夜油小路にて同志の者矢張新撰より闇殺せらる。右は巨魁伊藤甲子太郎も討たれ、右二人討洩らされ、外にたよる所これ無く、此方様へ御囲置き下されたく云々申出候。右駆込来り候時、左膳典膳の取計には、支配頭もこれあるべきに付、手順相立てられ申すべく、其上何ツ迄も御依頼なれば、尚詮議の上答へ申すべく云々答へ、帰し候よし」(土佐藩参政神山左兵衛日記 『中岡慎太郎 新訂陸援隊始末記』引用箇所より。原文カタカナ)

★明け方3時頃、鳥撃ちにでかけていた阿部と内海(伊東道場の塾頭だった)に伊東暗殺の知らせが届いた。鳥撃ち銃に二つ玉を込めて(阿部は新選組では砲術師範だった)約3〜4里の道を高台寺に急行したが、すでに明け方直前だった。近藤らが取り巻いているだろうと考えた阿部は、道中内海に向かって「到底一緒には逃げられないから、近藤か土方がでてくれば二人のうち一人は是非撃ち止めるから、発砲したらすぐに逃げろ。わたしは撃たれるようなことはないから」と言い聞かせていた。しかし、高台寺に人影はなく、そこですぐに鉄砲を捨てて稽古着ひとつになって油小路の現場に新選組に斬り込むために内海とともに駈けていったが、すでに新選組はひきあげたあとだった。

そこで、屯所に斬りこんで討死しようととしていたところ、普段から密偵として使っていた者がでてきて、「今、50人近くの人数が屯所に戻ったところで、そこへおまえら2人が乗り込んでも犬死だから、考えなおせ」と忠告した。いろいろ考えると、ここで自分たちが討死しては、真実を告げる者が誰もいなくなり(この時点で誰が生き残っているか不明だった)、近藤らにどういう作り話をされるかわからない。ここは討死する場所ではない」と考えなおした。

その後、内海とともに土佐藩邸を訪ねて留守居役に面会して委細を説明し、身のおきどころがないので保護してほしいと頼んだが、答えは否だったので、阿部は大いに怒ってこう言った。「かねて土佐は天下の強藩であり、勤王の藩であるときいていたが、誠にみさげた話で、それならやむを得ません。新選組の探索が厳しく逃げるべきところはないのだから、切腹をするので座敷をかしてください」。しかし、それも容れられず、阿部らは土佐藩を追いたてられてしまった。(元御陵衛士阿部隆明談『史談会速記録』より要約)


関連:徒然に・御陵衛士−Survivor's guilt

*阿部と内海がこの日に歩いた距離は伏見⇒月真院⇒七条油小路⇒土佐藩邸と相当なものとなります。土佐藩邸にたどり着いたのは夕方だったようですが、これは、日の高いうちはどこかに潜んでいたからではないでしょうか。

■放置された伊東らの遺体の埋葬の懇願 ―戒光寺堪念の場合

★阿部は、それから、とりあえず戒光寺(孝明天皇の墓所のある泉涌寺の塔中で、長老堪念が衛士拝命に尽力し、彼らと懇意だった)に頼んで放置してある伊東らの遺体を埋葬してもらおうと考えた。戒光寺でいろいろ相談した結果、まず島原の伊東の女(花香大夫)を呼びにやり、新選組の様子をさぐらせた。それから戒光寺から伊東らの遺体をひきとって葬式をしたいと頼んだが、近藤は「まだ同志の者がいるはずだから、彼らが受け取りにくれば渡そう。戒光寺には渡せない」との答えだった。阿部は二度も三度も新選組に使いをやったが、どうしても遺骸を渡さなかった。もちろん、遺体を引取りにきた衛士を殺害するつもりだからである・・・(元御陵衛士阿部隆明談『史談会速記録』より作成)


戒光寺は東山にあります。夕方に土佐藩を追い払われた阿部らが到着したのは夜だったのかもしれません。

■放置された伊東らの遺体の埋葬の懇願 ―西本願寺侍臣西村兼文の場合

★4名の遺骸は3日間、道路に捨て置かれた。西村兼文は埋葬をさせてくれと屯所に談じに行くが、近藤に<ただの付き合いのあなたより、われわれ同志の方が付き合いが深い。衛士の仲間と相談するつもりで、仲間が来るのを待っているところである。土佐の犯行らしいが逃げるとは卑怯ですな>と断られてしまった。遺骸は、3日目の夜(=21日?)に新選組の手で仮埋葬された。(西村兼文『新撰組(壬生浪士)始末記』より作成)


<ヒロ>

■薩摩藩の「疑い」

衛士の阿部は、坂本龍馬が暗殺された後、自分たちもいつ新選組に消されるかわからないと、薩摩藩邸に保護をもとめていますが、「藩中にはまだ疑いをもつ者がいるから」と拒絶されています。伊東らが殺されてようやく疑いが晴れて保護されたというのは、皮肉なことです・・・。

しかし、もしかすると、中心人物の伊東がいなくなったからこそ、薩摩藩は残党を藩内に迎え入れることができたのかもしれないとも思います。なぜなら、どう考えても、伊東(一和同心を唱え、公議を基本とする本当の意味での朝廷中心の政治体制・公卿政権を志向し、大政を再び武家に委任する可能性を排除)と大久保ら薩摩藩討幕派とは、目指すものが違うと思えるからです。また、徳川家だけでなく、徳川家に代って別の大名が政権の中心になることも排除する伊東は、特定の藩の手先となってその利益をはかるために活動することは拒むのではないかと思います(坂本暗殺後、薩摩藩に保護を求めにいったのが伊東ではなく阿部だったというのも何だか意味がある気がします)。いまだ王政復古が実現しない不安定な段階においては明確ではなかったかもしれない伊東と薩摩藩の違いも、いつかは顕在化し、そのとき、伊東は薩摩藩にとって「邪魔者」になったかもしれません。そんな獅子身中の虫となりうる伊東とその同志を危険を冒して藩邸に匿うつもりはさらさらなかった・・・。伊東への「疑い」の裏には、そういうこともあったのではないでしょうか・・・。(憶測です)

関連:「御陵衛士の建白書(3)大政奉還後の新政府基本政策(綱領)」@衛士館

薩摩藩は、ただの好意で生き残りの衛士を迎え入れたのではないという気がします。薩摩藩にとっては、伊東の死とともに政治集団として明確な指針を失った衛士たちに、これまでになかった利用価値を見出したのではないのかと想像しています。(探求中)

■遺体の放置・晒すという行為

伊東らの遺体はそれから数日間、路上に放置されたようです。永倉関連の資料には<翌日に埋葬>(「浪士文久報国記事」)、<(闘い後)遺骸を屯所まで引き上げ、それから埋葬した>(『新撰組顛末記』)とされており、放置について触れていませんが、衛士関係者の資料以外にも、伊東らの遺骸が最初に埋葬された光縁寺の過去帳(「往詣記」)には(彼らの命日をさして)「内実は」18日とされていることからも、殺害されてすぐに埋葬されなかったことがわかると思います。

遺体を晒すという行為は、時代のいかんに関わらず死者を冒涜するものではないでしょうか。だからこそ効果のあることであり、幕末にもしばしば行われています。天誅・鳩首もそうですが、京都の某寺の方からきいた話では、禁門の変後、「朝敵」となった長州藩士の遺体も、しばらく埋葬を許されなかったそうです(埋葬せよとの命令がなかったので、埋葬できなかったともいいます)。また、会津戦争の死者を新政府軍が2年もの間、埋葬を許さなかったということもありました。いずれも、遺体を晒す側には見せしめ・憎悪などの理由があるようです。新選組の場合、囮として放置といいますが、要するに、大切な同志の遺体を路上に晒されていることに我慢ならない衛士の気持ちを逆手にとっているわけです。現に土佐藩で保護を断られて戒光寺に向った阿部は、自分の身の安全よりも、まず伊東らの遺体の引取りを画策しています。

幕末で、遺体を囮として路上に数日間晒したケースは寡聞にして外には聞いたことがなく、そういう意味で、これは、かなり異常な行為だという気がします。(管理人は、この異常な行為の裏には、衛士殲滅の強い意思や伊東らへの憎悪・嫉妬以外に、朝廷や穏健な大政奉還推進派に恐怖を与えようとする意図があったと考えています。こちら)。隊士であった永倉にとってさえ、後味が悪いことであり、だからこそ、回想類には、遺体はすぐに埋葬されたかのような虚偽をわざわざ記し、放置の事実を秘そうとしたのではないでしょうか。この日、会津藩から4名の葬儀料が渡されたのも、早く埋葬せよとの指示だったのかもしれません。(まったくの私的感想ですが、会津武士がこういう行為を承認するとは、ちょっと想像できないのです)。

■遺体の埋葬

油小路で殺害された毛内監物は、かねてから戒光寺の院代に「なにかあったら戒光寺に埋葬してくれ」と頼んでいたといいます。天皇家と縁の深い戒光寺(孝明天皇の御陵のある泉涌寺の塔中でもある)に眠ることは、死してもなお、御陵の衛士とありたいとする彼らの気持ちがよくあらわれていると思います。だからこそ、阿部も戒光寺に頼んで伊東らを埋葬させようと頑張ったのでしょう。しかし、遺体は、数日間の放置を経て、結局、戒光寺ではなく新選組の菩提寺である光縁寺に埋葬されました。絶対に戒光寺には眠らせないという近藤・土方の意地のようなものが感じられる気がします。

遺体は、新選組退京後の慶応4年2月13日に、同志の手によって戒光寺に改葬されました。戒光寺の院代(長老?)によれば、大名にも珍しいほどの弔いで、衛士7人は騎乗・野辺送りは150人。葬式は300人ほど集まったそうです。費用は大原参与(大原重徳)の役所から出ました。4人の遺体は、死後3ヶ月も経っているのに、ついさっき討死にしたように見えた。「勇者の一念はこうあるべきものだ」と語り合ったといいます。(慶応4年2月28日付け津軽藩士書簡 『毛内良胤(有之助)青雲志録』−『新選組研究最前線』に所収)。

彼らの墓所は孝明天皇の御陵のある泉涌寺の総門前にあります。御陵の衛士として本当にふさわしい場所だと思います。管理人が戒光寺の方からうかがった話によると、わざわざ山を開いて墓所を作ったのだそうです。

もっと整理して書きたいのですが、今年も出張中で時間がないので、詳細なコメントはまたの機会に・・・。慶応3年末の政治情勢とからめて、会津藩・土佐藩のことなども書きたいです。

関連:
慶応3年11月18日:油小路事件(1)伊東、近藤妾宅へ呼び出される 11月18日:油小路事件(2)伊東、新選組に暗殺される 11月19日:油小路事件(3)油小路の闘い 11月19日:油小路事件(4):伊東らの遺骸が放置される。三樹、加納、富山、薩藩に入る。阿部・内海、土佐藩邸に保護を断られ、戒光寺に。11月20日篠原・阿部・内海、今出川薩摩藩邸に保護される /薩摩藩中村半次郎、衛士残党に坂本・中岡暗殺犯(新選組の関与)について質問する/ 11月21日:篠原・阿部・内海、伏見薩摩藩邸へ。三樹らと合流/ 11月24日薩摩藩吉井幸輔、伊東の暗殺についてコメント。

■別館HP「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」

<参考>『新選組史料集コンパクト版』・『新選組研究最前線』・『高台寺党の人びと』・『中岡慎太郎 新訂陸援隊始末記』・『誰が竜馬を殺したか』・『新選組戦場日記』・『新撰組顛末記』収録・引用の史料、『史談会速記録』 (2000.12.14、2003.12.14)

同日、大久保一蔵、坂本暗殺は新選組に違いないとする手紙を岩倉へ出す/長州藩に末家家老召出中止の報が届く

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