12月の「今日の幕末」 幕末日誌慶応3 テーマ別日誌 開国-開城 HPトップへ
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慶応3年11月18日(1867年12月13日)夜、晴れ。 近藤勇の妾宅で歓待された伊東甲子太郎(こちら)は、酩酊して帰営中、妾宅から目と鼻の先の木津屋橋近くで、待ち伏せの新選組隊士数名に襲われました。物陰から突然、槍で肩から喉を刺し貫かれたのです。伊東は、瀕死の重傷を負いながらも、刀を抜いて応戦し、一名を斬捨てると油小路通りへ逃れました。しかし、北に数メートル行った本光寺あたりで、力尽きたか、一説に、門前の門派石に腰を降ろし、切腹をしようとし、「王事に尽くさんがために投げ出した命なれど、最早命運尽きたるは残念至極。新選賊!」と言って絶命した・・・といいます。その懐中には建白書があったそうです。満月に少し満たない月がこうこうと輝いている晩でした・・・。 伊東が襲撃された木屋橋通(油小路通りから堀川通りをみる)。 当時、通りの南側(写真左)は新選組屯所に面していたらしい。 左:油小路通り本光寺 右:絶命の地 ■史資料にみる伊東暗殺 (1)同時代記録: 1) 「七条油小路において元新選組、禁裏御陵相勤めおり候者四人殺害致され・・・一人は樫次郎(伊東甲子太郎の誤記)とかにていたって人物に候由」(京都の町人の同時代記録 『丁卯雑拾録』) (2)同時代関係者の回想録・回想談(管理人による要約です) 1) 夜8時に妾宅を出た伊東は、待ち伏せの4人(大石・宮川・横倉・岸島)に殺害された。(永倉新八「浪士文久報国記事」より要約) 2) 18日の夜9時頃、新選組の姦計にはまって暗殺された。(篠原泰之進?「秦林親日記」) 3) 近藤妾宅で歓待されて酩酊して帰営中に、木津屋橋近くで待ち伏せの新選組に塀越しに槍で肩から喉を刺し貫かれた。待ち伏せは4〜5名。伊東は手負いながらも、一名を斬捨て、油小路の本光寺前まで逃れ、「奸賊ばら」と叫んで絶命した(伊東らと親交のあった西村兼文『新撰組(壬生浪士)始末記』) 4) 待ち伏せの新選組4〜5名(大石、宮川ら)に後ろから襲撃されて殺害された。(阿部隆明談『史談会速記録』90) 5) 近藤の所に行った帰りに暗殺されて油小路に捨て置かれた。(加納道雄談『史談会速記録』104) (3)その他(管理人による要約) 1) 妾宅から帰宅途中の伊東を3名が待ち伏せていた。伊東は物陰から大石鍬次郎に斬られて、即死した。ついてきた同志は伊東が斬られたのを見ると逃げた(永倉の晩年の回想をもとにした読み物『新撰組顛末記』) 2) 斎藤は近藤の命令で伊東を殺害した。(斎藤の長男が死ぬ前に妻に口述筆記させた「藤田家文書」) 3) 重傷を負って油小路の本光寺前まで逃れた伊東は、逃げ切れないと覚悟して割腹をしようとした。伊東は「王事に尽くさんがために投げ出した命なれど、最早命運尽きたるは残念至極。新選賊!」と言って絶命した・・・と先代から聞いている(本光寺住職吉田智照談 『新選組誠史』の引用部分より) 伊東暗殺の報は月真院に届けられ、月真院は騒然となります・・・(油小路事件(3)へ) <ヒロ> ■惜しまれた死 惜しまれた死でした。暗殺された伊東について、京都の町人まで「非常に人物だった」という噂がとどいていました。また、越前藩の記録「丁卯日記」によれば、薩摩藩の吉井幸輔が「すこぶる有志の者だったのに惜しいことをした」と中根靱負(雪江)に語ったそうです(こちら) 記録にみるかぎり、伊東が人を斬ったのはこれが最初で最後となりました。・・・酔わせた伊東を襲撃するにも複数であたった新選組ですが、酔っていても、伊東の腕があなどれなかったのもあるでしょうし、確実に伊東を殺したかったのもあるのでしょう。最初に喉を貫かれるという重傷を負いながらも、一名を斬り捨てたのだとしたら、やはりその腕は確かなものだったのでしょう。 ■遺体の放置 伊東の遺体は七条油小路の辻まで引きずられ、そこへ放置されました・・・(本光寺から七条までは二つも辻があります)。伊東が暗殺され、その遺体を放置すれば必ず同志が全員でひきとりにくる・・・近藤(あるいは土方)はそうふんだのでしょう。伊東と衛士らの絆がおしはかられると思います。 近藤らが、このような死者を冒涜する行為を行った理由には、よほど伊東を憎く(あるいは、津軽藩士書簡の記すように、妬ましく)思っていたこともあるかもしれませんが、管理人が想像するように、近藤が伊東暗殺に天誅としての意味もあったとすれば(こちら)、遺体を晒すという行為でもあったはずです。もしかすると、鳩首できるものならばしたかったのかもしれません。 ■斎藤の関与について 藤田家に伝わる「斉藤が殺した」ですが、このほか、反復した斎藤は18日夜、同志の者を暗殺したとする『秦林親日記』があります。「同志の暗殺」が伊東殺害を指すのか油小路事件を指すのかは不明ですが、油小路事件は暗殺というより闘いですから、やはり伊東の暗殺をさしているのかもしれません。これが事実なら、伊東の暗殺への関与は、復隊した斉藤にとって踏絵のようなものだったのではという気もします。 ■護衛について ところで、4名の同志が護衛としてついていたとするのは永倉の回想のみです。御陵衛士側の記録・証言では、いずれも伊東の死を高台寺(月真院)で聞いたとしています。元桑名藩士の小山正武も御陵衛士は高台寺で知らせを聞いたと証言しています(『史談会速記録』104)。また、風説書でも若党を二人連れていたとか、僕を一人連れていたとかされています。 新選組が護衛を含めた5名をたった4〜5人の暗殺者で襲撃するとは考えにくいと思います。その後、死を覚悟して遺骸を引き取りに現われた同志7名のうち4名も護衛についていたのだとしたら、彼らが誰も抜き合わせもせずに伊東を見捨てて逃げるという描写にも、疑問があります。小者が伊東に従っていた事実はありますが、永倉の記録は、伊東が酔っていたことにも触れておらず、暗殺における新選組のアンフェアな印象を薄めようという意図で、護衛の存在を創作したとは考えられないでしょうか。 ■本光寺住職の談話について また、伊東が本光寺門前の門派石に腰を降ろし、切腹をしようとしたという逸話は昭和48年に油小路に殉難の碑が建てられたときの除幕式における談話によります。伊東が割腹しようと腰をかけた門派石は、現在、門の中にあります。当時から同じ場所にあるのですが、当時は門の外にあったそうです。お寺の改装のとき、門を前に出したため、門派石が中にひっこんでしまいました。新選組本に「伊東は本光寺に逃げ込んだ」とするものがあるが間違いです。「尼寺に逃げこんだ」とかいてあるものにいたっては、伊東への悪意がみえみえという気がします。 ■謡曲「竹生島」について 暗殺される前、伊東が酔って竹生島を歌っていたという説がありますが、これは子母沢寛の作品が初出のようで、創作ではないかと思っています。まず、竹生島は春の歌であり、和歌をたしなみ季節感にこだわりそうな伊東が冬に口ずさむとは想像しにくいのです。(春を待ち望んで口ずさんだとも考えられますが)そして、明智光秀と関わりのある歌ときいたことがあります(確認中)。だとすれば、伊東は建白書で明智光秀を批判していますので、竹生島を酔って謡うとはよけいに考えにくいです。(『顛末記』や子母沢寛『新選組始末記』を史料として扱っている方が、今でもときどきサイトにこられるのですが、どちらも史実をもとに脚色された読み物なんですよ><)。 関連: ◆慶応3年11月18日:油小路事件(1)伊東、近藤妾宅へ呼び出される 11月18日:油小路事件(2)伊東、新選組に暗殺される 11月19日:油小路事件(3)油小路の戦い 11月19日:油小路事件(4):伊東らの遺骸が放置される。三樹、加納、富山、薩藩に入る。阿部・内海、土佐藩邸に保護を断られ、戒光寺に。11月20日篠原・阿部・内海、今出川薩摩藩邸に保護される /薩摩藩中村半次郎、衛士残党に坂本・中岡暗殺犯(新選組の関与)について質問する/ 11月21日:篠原・阿部・内海、伏見薩摩藩邸へ。三樹らと合流/ 11月24日薩摩藩吉井幸輔、伊東の暗殺についてコメント。 ■別館HP「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」 |
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