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内海次郎(二郎)

名前 内海次郎 諱は正忠→忠利
出身 江戸川越
生年 天保7(1836)生まれ。(元治元年『会津藩庁記録』の29歳より逆算)
没年 不明
小史
内海次郎は北辰一刀流伊東道場の師範代である。元治元年9月、伊東甲子太郎に従って上京した。新選組の剣術師範には選ばれていないが、三条制札事件報奨金20両をもらった4人のうちの1人であることから剣の腕の程度がうかがえる。(伊東とともに上洛したメンバーには伊東・服部・内海・中西と剣のできる者がいたが、誰も剣術師範には選ばれていない。これは新選組側の警戒からか?)。慶応3年、内海は師・伊東に従って新選組を分離した。油小路事件当日は阿部と鳥打に出かけていて不在であった。その後、阿部らとともに沖田襲撃(未遂)&近藤襲撃に参加した。鳥羽伏見の戦い後、他の同志と同様に赤報隊に加わったかどうかは不明である。明治2年の伊東ら殉難同志の墓碑建立には名を連ねているが、その後の消息は知られていない。


年譜
年号 できごと
天保7
(1836)
1 武州川越で誕生。
天保8
〜文久3
不明
元治1
(1864)
29 この頃までに江戸深川佐賀町伊東道場の師範代になる。
10月−上京する伊東に同行して江戸を出立。
参照:近藤、伊東ら28名江戸出発
慶応1
(1865)
30 不明
慶応2
(1866)
31 6月−内海・松本喜二郎・三井丑之助・近藤芳助が隊士・柴田彦三郎の脱走を追う。
9月−三条制札事件に七番隊隊士として参加。
12月−会津藩から賞金20両を下賜される。
慶応3
(1867)
33 3月20日−伊東に従って新選組から分離
11月18日−油小路事件。当日は、阿部十郎とともにに巨涼池に鳥撃ちにでかけて不在。(参照:伊東、新選組に暗殺される油小路事件

11月19日−宿泊先で事件の報を受ける。阿部とともにすぐに月真院へ向かい、明け方、月真院にたどり付く。新選組に占拠されていれば討入る決意であったが、人影はなく、油小路へ。しかし、新選組は朝食を食べに引上げた後で、 戒光寺へ向う。夕方、河原町の土佐藩邸に赴き保護を求めるが、断られ、戒光寺に戻る。(参照:阿部・内海、土佐藩邸に保護を断られ、戒光寺に)

11月20日−朝、白河の土佐藩邸(陸援隊屯所)へ向かう。門前で薩摩の中村半次郎に出会い、保護される。夕方、中村に連れられて今出川の薩摩藩邸に入り、篠原と合流。

11月21日−三木・加納・富山の潜伏する伏見薩摩藩邸に移る。
12月中旬−薩摩藩中村半次郎から外出許可が出る。

12月17日−加納が、沖田総司が京都醒ヶ井の近藤勇妾宅に潜伏という情報をもたらす。

12月18日−伊東の祥月命日。早朝、阿部・佐原と共に醒ヶ井の近藤妾宅に踏み込むが、沖田は、既に伏見奉行所に赴いた後。一度伏見藩邸に引き上げるが、再び3人で京都に向かい、知人(侠客清水磯吉)と会う。無事を祝して50両をもらったので、寺町の武具屋で買い物中、騎乗の近藤を目撃。伏見薩摩藩邸へ急いで戻り、藩邸にいた三樹・篠原・加納・富山とともに伏見街道で近藤を待ち伏せ、襲撃するが失敗に終わる。(参照:近藤勇・沖田総司、御陵衛士残党に襲撃される
慶応4/
明治1
(1868)
34 1月3日−鳥羽伏見の戦。三樹ら衛士残党とともに薩摩藩一番隊に属して戦闘、伏見奉行所の新選組を破る。その後鳥羽方面に。城南宮で宿泊。

1月6日−衛士残党、綾小路・山科、及び水口藩士油近錬三郎らと合流(綾小路派)し、総勢20名ほどで京を脱出する。内海については参加・不参加どちらも明確な記録はない。
明治2
(1869)
35 11月−戒光寺墓地の御陵衛士墓碑建立に尽力。以後、消息不明。


<参考>『史談会速記録』・『新撰組(壬生浪士)始末記』・『秦林親日記』


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