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元治2 年(1864)数え30歳

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伊東のできごと 幕末のできごと
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2/23-副長の山南が切腹する。一説に、伊東との黙契があって脱走したのが理由とされるが、真相は謎のままである。(管理人は脱走自体を疑問視⇒山南敬介(3):脱走説に疑義山南敬介(4)新資料?「山南三郎・・・与隊長某議論自服」

★山南は、幕府の爪牙となり、また武断主義でことを進める近藤・土方と対立。近藤も一方の副長である土方のみと事を決し、山南を疎んじる。山南は新規加入した伊東に敬服して意気投合し、後日を期した黙契ができる。近藤がさらに猜疑の目をむけるのでついに隊を脱走。これを口実に処断できると喜んだ近藤は沖田を追手に向ける。山南は大津で捕縛されて連れ戻され、切腹させられるという。(『新撰組顛末記』)

<ヒロ>
山南切腹の理由は隊規違反の脱走というイメージがあるが史料的根拠は薄く、定説ではない。脱走説は事件から50年以上立った時点での永倉回想談の『顛末記』にみられるだけで、明治初期に書かれたと推定される永倉直筆の『報国記事』では、黙契/脱走説どころか山南の切腹という事実も伏せられている。『顛末記』の回想を語った永倉は伊東と山南の黙契を知りうる立場にはおらず、これは想像でしかない。回想談をまとめた記者の創作という可能性もある。伊東派側の記録にも黙契の存在を示唆するものはない。伊東との黙契脱走説を取ると、なぜ京都からの大津にいたのか、なぜ沖田にやすやすと見つかり、また抵抗せずに戻ったのか等の疑問が生じる。「黙契説」は無理があるとする「密会説」、「山南パフォーマンス説」、「山南粛正のための罠説」などの推理もある。

★厳重に監禁される山南に向かって、永倉・伊東が脱走を勧めるが、山南は謝絶したという。(『新撰組顛末記』)

<ヒロ>
『顛末記』が事実を伝えていると仮定した話だが、この後、近藤・土方・沖田・斎藤らが入室し、近藤が処分を言い渡したというので、伊東・永倉は山南の処分決定には一切関わっていない模様である。このことから、当時、伊東は、前年から引き続いてまだ客分であり、正式加盟していなかったとも考えられる(当時、まだ参謀についていなかったことは、翌3月の東下時に目付けという身分だったことからも推測できると思う)。永倉は前年の近藤批判が響いて外さたとも考えられる。このため、両名は正式の場で山南を弁護することができず、「後は引きうけるから」と脱走を勧めるしかなかった可能性もある。(伊東が当時、京都にいなかった可能性もあると思う)。

*『顛末記』の脱走説を採りながら、近藤がよろこんで切腹させたという記述を採らず、近藤・土方が涙を飲んで切腹させたとしている本をよくみかけますが、都合のいいところどりは疑問。
2.4-天狗党武田ら斬殺が始まる(志が多く参加し、自分も一度は同行を考えた天狗党の挙兵が失敗。幕府に捕縛される。処分は〜2月23日まで続いた。)
2.5-老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上洛(慶喜・容保の江戸ひきあげ&幕兵による京都守護と朝廷牽制)
2.28-西本願寺、新選組に寺の使用を許す






下旬?伊東、山南の死を悼み、新選組を暗に批判する和歌を4首詠む
山南氏の割腹を弔て
春風に吹きさそわれて山桜散りてそ人におしまるるかな
吹風にしほまむよりは山桜ちりてあとなき花そいさまし
皇のまもりともなれ黒髪のみたれたる世に死ぬる身なれは
あめ風によしさらすともいとふへき常に涙の袖をしほれは

(「残し置く言の葉草」鈴木家蔵より)


<ヒロ>これらの弔歌が、いつ詠まれたのかは不明。この年の桜の開花時期を考え合わせると、死後しばらくたって詠まれた可能性が高い。法要のために詠まれたものか個人的に詠んだ物かも不明。和歌を多く残す伊東だが、誰かの死について、一度に4首詠んでいる例は残されていない。このことからも彼の受けた衝撃の深さがうかがわれる。

関連:伊東甲子太郎の弔歌から読む山南の切腹
3

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3/22(4.17)頃〜5/10(6.3):伊東、土方・斎藤一とともに隊士募集に東下。52名の新入隊士、及び前年9月頃より江戸に在留していた藤堂とともに、5月10日に帰京
3/22頃:伊東、土方・斎藤とともに東下
4/5:土方・伊東・斉藤、江戸着。
4/27:伊東・藤堂・斎藤・土方、新入隊士52名と江戸出発
5/9:草津宿に宿泊(草津宿大福張)
5/10:京都到着(推定)
★伊東と斎藤は、土方とは別に隊士募集を行った様子である。伊東と斎藤が一緒に行動していたのか、彼らも別々だったのかは不明。このときの職位は、土方は副長、伊東と斎藤は目付け役。(「異聞録」−『新選組日誌』の引用箇所より)
3.29-老中、会藩への疑問氷解

4.18−征長宣戦の令。

5.16−会津藩への手当て支給開始、将軍征長に江戸進発
5.25−新選組、藤井藍田捕縛
5/11(6.4): 篠原泰之進、伊東らに合流「秦林親日記」

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閏5月:伊東、膳所事件に関連して新選組に捕縛された井上謙三放免に尽力
★井上謙三という老士がいて、上記河瀬らの企てを諌止しようとしていた。計画が発覚して一党は捕縛されたが、鯉沼伊織(後の香川敬三)は縛を脱れた。井上は逃げて来た鯉沼を一泊させたが、それを探り当てた新選組は、井上を捕縛して近藤・土方・伊東らの前へ引き連れて詰問した。井上は「老人を捕らえるのに大勢を繰り出すとはなにごとだ。不肖の身ながら帯刀者である自分に縄をかけるとは士道の心得のない者の仕業である」等、論じた。出鼻をくじかれた近藤・土方が詮索に窮した折をみはからって、伊東は「話をきいていると悪意のある者とも思えない。ただ一人の老生にどんなだいそれたことできるというのか。放免してはどうか」と口をきき、近藤らもその意見を容れた。(「新撰組(壬生浪士)始末記」より)
閏5.16−徳川慶勝、将軍に先発
閏5.22−家茂、入京参内。一会桑に頼るよう、長州処分を清算するようにとの勅愉。また戸田大和守に優賞の内意
閏5.23−防長の評議。

7/18:脱走隊士・植田末次らが名古屋で朝名を騙って金策するとの通報があり、伊東・東海道探索。
★尾張で朝廷の名を騙って金策を働く脱走隊士(植田末次)らがいるというので、探索のため、伊東ほ3〜4人が東海道へ、島田魁ほか3〜4人が中仙道へ向かった。(「島田魁日記」より)
7月:伊東・富山・篠原・茨木・久米部、大和へ浪士捕縛に出張★大和国奈良に浪士が潜伏しているというので、伊東・篠原・富山弥兵衛・茨木司・久米部正親の5名が捕縛を命ぜられて出張した。その夜、篠原と久米部が、市中で身元不明の4〜5名と行きあたり、1間あまりの乱闘となった。相手は逃げたが、久米部は重傷を負った。(「秦林親日記」)

新選組慶応元年夏の編成。土方・伊東・斎藤の東下による隊士の大幅増加、また伊東派の正式加盟に合わせて組織の新編成が行われた。
★総長=近藤、副長=土方、参謀=伊東。1〜10番隊までの組が設けられ、各組長の下には伍長が2名、各伍長の下には平隊士5名が配属された。伊東とともに上洛した同志の中では、実弟の三郎が9番隊組長、篠原泰之進・服部武雄が監察。藤堂は8番隊組長である。また、のちに御陵衛士となった新井忠雄は監察。また、伊東は筆頭文学師範、篠原は筆頭柔術師範、毛内有之助は文学師範。新井は剣術師範、阿部は砲術師範である。(「新撰組(壬生浪士)始末記」)

<ヒロ>
伊東とともに上洛したメンバーの中で、伊東を含めた5人が役付きあるいは師範となっており、上京して半年たった伊東派の存在感がうかがえる人事。なお、フィクション等で見かける編成はこのときのものを基本にしていることが多い。
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年次不明だが、伊東は初秋(8月頃)に国事のために陸路(中山道)を旅して江戸に向った模様。また、やはり年次不明ながら、秋には誰か(花香大夫)を恋し始めている。もちろん慶応2年の可能性もあり。(残しおく言の葉草
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新選組、第二次『行軍録』作成。伊東らの名も。

<ヒロ>
第一次の時同様、新選組にお呼びは掛からないので、これも机上プラン。
9.16−4国艦隊、兵庫沖来泊
9.21−将軍参内。朝議で防長の幕府委任(将軍進発)
9.22−長州再征の勅許
9.23−幕府、四国代表と会談
9.25−大阪幕府(老中阿部正外・松前崇弘)、兵庫開港を独断決定
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10/22 伊東、武田観柳斎・沖田総司とともに肥後藩京都留守居役上田久兵衛訪問。(水滸伝の盧俊義について談話したもよう) 10.1−幕府、両老中罷免&謹慎令。
10.2−条約勅許&兵庫開港の秦請と将軍職辞表を提出
10.3−家茂、大阪を発って陸路江戸へ。
10.4−家茂、伏見到着。慶喜の説得。二条城へ。
10.5−慶喜、条約勅許を獲得。
10.12−会津、外島を通して薩との関係修復はかるも大久保拒否
10.13−西郷、幕府の因循を批判
10.25−西郷・小松、率兵入京
10月下旬?伊東・篠原、長州奇兵隊元総督赤根武人、及び久留米志士渕上郁太郎の赦免に尽力。(時期不明だが、伊東は長州藩遊撃隊来島又兵衛家臣石津茂一郎の赦免にも尽力)
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11/2 渕上、赤根、「貴公等は報国の士である、天下非常の際だから、粉骨砕身公武の融和と長州問題の善処について周旋するように」と釈放される。目付外川鉾三郎の旅宿に案内され、戸川と会談。夜、戸川と下坂。(渕上書簡) 11.3−将軍下坂
11.4−幕府、長州再征の諸藩部署決定。長州訊問使京都出立。膳所十一士処分。
11.25−長州副使木梨彦右衛門広島到着
11.30−永井、再び訊
11/4 近藤・伊東・新井・服部・武田・山崎・吉村・芦屋・尾形、長州訊問使・大目付永井尚志に随行して京都出立(「11月4日付け佐藤彦五郎ら宛て近藤書簡」)

<ヒロ>第2次征長の勅許を9月に得た幕府は、大目付永井尚志らを長州訊問使として広島に派遣し、そこで長州の代表に訊問することにした。新選組が随行を命じられ、近藤ら9名が出張した。彼らの目的は長州探索だったが、入国を断られ、12月帰京。9名中、3名が伊東派(伊東・新井・服部)である(あるいは、新井はこのときに同志となった可能性もある)。近藤が危険が伴う長州探索を目的とする出張に伊東らを同行させたのは、文武の能力だけでなく、人間的としても同志としても信頼していたからではないか。
11/5 大阪出立。(渕上・赤根も大坂出立)
11/16広島到着(渕上・赤根も)。
11/20近藤らの入国、拒絶される(訊問使、国泰寺で長州使者宍戸備後介を訊問)
11/22(*渕上・赤根、長州へ潜入。)
12
12/2(*渕上、永井に復命。「今後は自由にしてよい」といわれる。) 12.27-朝廷、守護職容保に対し、山陵奉行戸田忠至の山陵補修事業開始に尽力した功により思詔を与える。
12/4近藤・伊東・武田、岩国をめざして広島出立。
12/15近藤・伊東・武田、岩国で長州入を交渉
12/16近藤・伊東・武田、断念して岩国出立(訊問使、広島出立)
12/17近藤・伊東・武田、広島出立
12/22京都帰着。近藤、会津藩に復命し、状況の報告・及び長州寛大を主張

概略は
1.芸州に来りきたる長藩家老宍戸備後介は其の実奇兵隊用掛山縣小介と云ふ軽輩にて其の余も皆偽名なる事
2.君臣陽に謹慎恭順を表す雖も陰に戦闘の準備に汲々たる事
3.山口に会議所を設け諸家より選抜の者之に会し諸事を決し且つ削封は寸地も之を肯んぜずと主張し諸藩亦征長を可とせざる事
4.芸州出張の旗下の兵及び彦根・榊原党の諸藩勇気阻喪甚だしく之をして戦はしむるも勝算覚束なき事

右之如き状態に付長藩謹慎恭順を表し伏罪の形有之に付ては此上深く取詰るに不及寛大の御処置有之方可然存候事 
(『会津松平家譜』)

<ヒロ>
これまで征長を主張してきた近藤が長州処分寛大を主張している裏には、寛典論の伊東の影響があるのではと思います。近藤が、伊東が御陵衛士として分離した後の慶応3年6月には長州処分を主張する建白書を出していることからも近藤の国事周旋への伊東の影響が感じられる気がします。
(1999.9.18, 2004.2.20)

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(注)参考史資料は同時代史料後年の回想録・回想談伝記・口伝、実話に取材した読物の4種類に分けて色分けしました。同項目に関して複数の史資料がある場合は成立年代順に並べました。資史料の語句をそのまま引用しているのは「」で囲んだ箇所だけで、残りは要約/パラフレーズです。

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