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慶応2年(1866)数え32歳


伊東のできごと 幕末のできごと
1
1/24近藤、松平容保から広島出張を下命される 1.7−老中板倉・小笠原、慶喜・容保と長州処分を評議に上京
1月中旬−容保、長州処分をめぐって老中と慶喜の間を周旋
1.22−薩長同盟。長州10万石削封の処分案の勅許。
1.23-幕府、寺田屋襲撃
1.26-小笠原全権&大目付永井・室賀、目付牧野随行命令
1/27(3.14)伊東・篠原、長州処分通達に芸州(広島)に派遣される老中小笠原長行らに先発し、近藤・尾形とともに、陸路広島へ「時に而は長州辺迄と行段にも相知れ申さず」という出張(宮川音五郎宛宮川信吉書簡)。伊東・篠原は近藤・尾形と別行動を取ることが多く、老中小笠原長行や諸藩周旋方(小倉、広島、田辺、筑前藩)らに対して長州寛典・幕政改革を唱えるなど独自の活動を展開。また、近藤・尾形の帰京に同行せず、四国等を回った後、2週間遅れで帰京した。このとき長州へも潜行したという。(「秦林親日記」)

<ヒロ>前年の芸州出張(長州訊問使随行)正式メンバーは、近藤・伊東・武田・尾形だったが、今回は武田に変わって伊東派の篠原が加わっている。
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2/3(3.19)伊東ら一行、大坂から中国筋三原を経て、広島入り(「秦」) 2.4-小笠原大阪出発
2.7-小笠原広島到着。
2.8-永井出発
2.11-目付到着
2.12-小笠原、支藩毛利左京・毛利讃岐・吉川監物召命
2/11(3.27)伊東・篠原、小笠原と面談し、尊王を議論。また、諸藩周旋方、小倉藩田中孫兵衛、広島藩先生某、田辺藩宮川次郎・渡辺内記・向次郎、筑前藩井上六之丞・花房孫大夫とも会議。長州寛典を立論。(「秦」)

<ヒロ>慶応3年の御陵衛士建白書をみると、一和同心のための長州寛典である。
3

5
3/7(伊東)篠原、小笠原家臣野崎要人・柳川藩宮崎某・唐津藩尾崎多賀と面談。(「秦」)
3/12近藤、京都に帰着(「壬」)
3/15新選組隊士・佐藤安次郎、広島へ。篠原(伊東も?)と会う(「秦」)
3/18伊東・篠原、広島港出立(「秦」)
3/19伊東ら備後に停泊(「秦」)
3/22伊東ら四国多度津に停泊(「秦」)
3/24伊東ら大坂港到着(「秦」)
3/27伊東ら京都到着(「秦」)
6
6月頃 弟三樹三郎(三木三郎)と東下?
伊東・三樹は在京中、一度江戸に戻り(時期不明)、6月に京都に戻っている。
★*「・・・さて去る6月の上京ののち、御文申し上げ候えども・・(中略)・・・長州の方も、只今のけい勢にては御追討はおぼつかなく候。京都大阪は何ぶん一日もおだやかならず候えども、天朝へ御奉公いたし候一心に御座候間、少しも別状は御座なく候、御安心遊ばされ、御身のみ御大切においとい遊ばし候やう、くれぐれもねがひあげ候・・・」* (8月4日付け母親こよ宛の伊東・三木の連名書簡-「伯父・伊東甲子太郎武明」)

<ヒロ>
年次不詳の書簡だが、三樹の娘婿の記した「伯父・伊東甲子太郎武明」では、慶応2年の書簡として所収されている。慶応2年であれば、書簡の認められた8月4日は、第2次征長戦が、将軍家茂の死去によって頓挫している最中であり、「追討はおぼつかなく」という情勢は符号する。この書簡を慶応3年(御陵衛士分離後)のものとする新選組本もある。慶應3年なら8月上旬は、長州処分について議論の最中だが・・・。

江戸に残った伊東の妻うめは、伊東を案ずるあまり、国事の奔走をやめて江戸に戻ってもらおうと、こよが大病との嘘の早飛脚を出した。驚いた伊東兄弟は早駕籠を仕立てて江戸に戻った。事情を知った伊東は立腹し、周りがとりなしたが、「いやしくも嘘はいけない」とうめを離縁した(「伯父・伊東甲子太郎」)というが、これがこのときだったのかもしれない。もし、そうなら、慶応2年6月は征長戦が始まったばかりで、京都を離れらることが難しいとき。(慶応3年6月だとすると、御陵衛士として新選組を分離した後で、新選組に残留していた尊王派同志が幕臣取りたてに反発して粛清されたり、御陵衛士屯所を月真院に移転したりと、伊東自身が激震のまっただなかにいたときである)。
4月
4.2-小笠原、藩主・世子らを21日限りで召命
4.6−一会桑参内し、長州厳重処分を奏請・勅許を得る。
4.14-薩摩藩、出兵拒否の表明書を老中板倉へ
4.18−新選組、伊勢の豪商から借金。会津謝罪。
4.23-長州藩宍戸備後助、広島到着。

5月
5.1-小笠原、処分を通告
5.7−一桑参内、長州再征の上奏。勅許。容保、病につき長州再征の上奏に加わらず

6月
6.7-第2次征長戦開始(総督・紀州の徳川茂承、副総督・老中本庄)

7
7月伊東、典薬寮医師山科能登助を通して、水口尊王派城多菫に見廻組が逮捕しようとしているので潜伏するよう忠告したという。1,2日後、伊東・城多、山科宅で会う。伊東は<新選組に入ったのはもともと尊攘の志を貫徹するためだったが、近藤・土方等の所業は不義を呈し、惨暴を極めている。度々忠告したがこれを聞き入れない。同志数名と分離しようと考えている>と告げたという。その後も、伊東やその同志は度々城多と往来したという。(城多の遺稿「昨夢記」)

<ヒロ>山科は、衛士残党が赤報隊結成するきっかけを作った人物です。また、城多は赤報隊に参加した油川信近とは同志でしたので、伊東らと油川らも城多を通して知り合ったと考えてよいのではと思います。大原重徳との縁↓ができたのも山科を通してなのではないでしょうか?

7月末頃 伊東・三樹、大原重徳を訪問。用件は不明。大原は二人の勤王の志に感じ入り、和歌を短冊に書き、故郷の母親に送るようにと二人に下賜。(慶応3年の可能性も)
★*「夜の鶴 子を思ふ闇に 迷はぬぞ げにたのもしき 大和魂」* (8月4日付け母親こよ宛の伊東・三木の連名書簡-「伯父・伊東甲子太郎武明」所収)

<ヒロ>この後も大原の厚誼は続いており、三樹は、鳥羽伏見の戦い後、大原の陣営に身を寄せている。大原は攘夷派の公家として有名で、文久3年には幕政改革の勅使を務めるなど、家格は低いが朝廷で実力があった。岩倉具視らと共に王政復古を成功させ、明治政府では議定・衆議院長官を務めた。
7.4-本庄の無断和議画策に激怒した茂承、辞表提出
7.16-幕府目付、新選組の京都警備外しを勧告
7.20−将軍家茂の死
7.23−会薩開戦のうわさ流れる
7.25-副総督罷免
7.26-長州兵、小倉を総攻撃
7.27-慶喜、慶永へ書簡(徳川の天下は是非滅亡なり)
7.28−慶喜宗家相続を奏請
7.29-宗家相続勅許・小倉口征長軍小笠原長行逃走
7.30-肥後・久留米ら九州諸藩戦線離脱
8
8/4 三樹と連名で母こよに書簡(上記)を認める(慶応3年8月の可能性もあり)



年次不明だが、伊東は初秋(8月頃)に国事のために陸路(中山道)を旅して江戸に向った模様。また、やはり年次不明ながら、秋には誰か(花香大夫)を恋し始めている。もちろん両方とも慶応1年の可能性もあり。( 「残しおく言の葉草)
)8.4−朝議・孝明天皇、解兵を許さない勅語
8.7-慶喜、総督・指揮辞任の勅許
8.11-九州解兵の報が慶喜に届く。方針転換
8.16−慶喜、征長検討のための諸藩召集願いを朝廷に提出、慶喜、勝海舟を芸州に派遣
8.20−幕府、家茂の喪&慶喜の宗家相続を布告
8.21−休戦の御沙汰
8.30−朝廷改革を求める列参奏上(二条、中川宮の辞職など要求)
9

9/19土佐藩、祇園に近藤・土方・伊東らを招き、三条制札事件の手打ち 9.2:慶喜、老中に8か条の幕政改革を示す
9.4:二条関白、中川宮国事扶助の辞意表明と参朝停止
9.7?:大名24名の上洛の朝命
9/26(伊東・篠原、近藤・土方と新選組分離について激論。:疑問あり
9/27(篠原、近藤・土方と激論。近藤ら分離了承。(疑問あり)
10
慶応2年末、新選組の幕臣取りたてが内定する。伊東らはこれを機に新選組離脱を考える(西村兼文「新撰組始末記(壬生浪士始末記)」)

<ヒロ>実は慶応2年末は新選組を預かる会津藩が守護職辞任運動を繰り広げていた。会津藩が京都を去れば新選組の処遇が問題になるわけで、その関連で幕臣取りたてが内定したというのは十分考えられると思う。(会津藩の辞任運動については本館の「守護職」コーナーへ)
10.16−老中小笠原お役御免。孝明天皇叡慮による諸侯参集前の慶喜参内と大樹応接(朝廷が将軍を事実上認める)
10.17−容保、守護職辞職申請
10.26−小松帯刀、西郷隆盛上洛
10.27−廷臣処分。二条関白政界復帰。
11
12
12.1:容保、余九麿を世子として養子に
12.5:慶喜に将軍宣下
12.15:孝明天皇発病
12.17:孝明天皇没
12.25:新選組、西郷と間違えて従者を暗殺とも
(1999.9.18)

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(注)参考史資料は同時代史料後年の回想録・回想談関係者の伝記・口伝、実話に取材した読物の4種類に分けて色分けしました。同項目に関して複数の史資料がある場合は成立年代順に並べました。資史料の語句をそのまま引用しているのは「」で囲んだ箇所だけで、残りは要約/パラフレーズです。

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