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元治2/慶応元年★数え22歳 |
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1 月 |
不明 | 1.11(2.6)-新選組、天誅予告状を張り出す 1.15(2.10)-幕府、長州処分の江戸での決定&将軍進発延期を布令。 1.26(2.21)-新選組、六角源氏捕縛 1.25(2.20)-幕府、参勤交替の復活を布告 |
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2 月 |
23 | 山南敬介の切腹。 元治2年2月22日-新選組副長山南、一説に脱走。 元治2年2月23日-新選組副長山南切腹。 |
2.4(3.1)-天狗党武田ら斬殺が始まる 2.5(3.2)-老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上洛(慶喜・容保の江戸ひきあげ&幕兵による京都守護と朝廷牽制) 2.13(3.12)−容保に御符を下賜。幕府、総督・守護職の月1万両賜金を停止。 2.22(3.19)-老中、朝命で参内。慶喜召還を叱責。将軍上洛の勅書。 2.28(3.25)-西本願寺、新選組に寺の使用を許す |
3 月 |
下 旬 |
不明 | |
4 | 5 | 隊士募集に東下してきた土方・伊東(役職は目付)・斉藤(目付)、隊士募集の東下・江戸着。<伊東の事件簿> 藤堂はどの時点かで彼らと合流。 |
4.18(5.12)−征長宣戦の令。 4.27(5.21)−大阪で新選組の悪評 4.28(5.22)−朝議で警衛のため諸藩召集説起こるが一会桑の反対でやむ。 4.30(5.24)−越前春嶽征長反対の建白。 |
27 | 伊東・藤堂・斎藤・土方、新入隊士52名と江戸出発 | ||
5 月 |
9 | 上記一行、草津宿に宿泊(草津宿大福張) | 5.16(6.9)−会津藩への手当て支給開始、将軍征長に江戸進 5.25(6.18)−新選組、藤井藍田捕縛 |
10 | *京都到着? | ||
? | ? | 新選組慶応元年夏の編成。一説に伊東=参謀&筆頭文学師範、藤堂=八番隊組長、三木=九番隊組長、篠原=監察&筆頭柔術師範、新井=監察&剣術師範、服部=監察、毛内=文学師範、清原=筆頭砲術師範、阿部=砲術師範。各組長の下には伍長が2名、各伍長の下には平隊士5名が配属された(「新撰組始末記(壬生浪士始末記)」) <ヒロ>八番隊組長である藤堂の名簿における序列は、以前に比べてかなり後ろになっているともいえる。 |
閏5.22−家茂、入京参内。 閏5.23−防長の評議。会、将軍、慶喜を忌む発言があり、容保これをいさめる。 閏5.24−将軍二条城出発 6.17−一会桑、老中阿部、参内して長州支藩召喚を奏請・勅許される。 8.4−薩摩藩大久保、征長は会津のアイデア等会津批判 8.8−新選組武田観流斎、薩摩藩士を補殺 8.18−幕府、広島藩に再度召喚を命ず |
9 月 |
? | 新選組、第二次『行軍録』作成。藤堂の名も。ただし、新選組が征長軍に加わる可能性はなく、これもまた机上プラン。 | 9.15−将軍上京 9.16−4国艦隊、兵庫沖来泊 9.21−将軍参内。朝議で防長の幕府委任(将軍進発) 9.22−長州再征の勅許 9.23−幕府、四国代表と会談 9.25−大阪幕府(老中阿部正外・松前崇弘)、兵庫開港を独断決定 |
10 〜 12 月 |
? | 不明 | 10.1−幕府、両老中罷免&謹慎令 10.5−慶喜、条約勅許を獲得。 10.25−西郷・小松、率兵入京 11.3−将軍下坂 11.4(12.21)−幕府、長州再征の諸藩部署決定。長州訊問使京都出立。 |
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