『共同研究新選組』(昭和48年)初出の「渕上郁太郎暗殺始末」を、著作者の許可を得て掲載しています。
赤根、渕上の放免 捕縛された後の二人の動静は、渕上郁太郎が、出獄後の慶応元年十一月に、広島から故郷の父に宛てた書簡により、最も明確にこれを知ることができる。 (前略)三月二十七日朝、大坂町奉行所より、何之訳とも無レ之御召捕に相成、一応吟味有レ之候上入牢罷在候処、四月晦日、京町奉行所より、与力同心余多罷越、同所へ曳かれし後、猶又京都にて入牢被二申付一度女詰問有。之、種女之御疑有レ之候得共、卿も卑弁を振以申訳致候而、一事も罪に落入候事無レ之候得共、甚以厳重の牢へ召込、飲食服類を始、色々困苦に堪兼、六月牢内に於て熱症相発、九月申平臥、既に死せんと致候事は幾度も有し之、誠以難儀致居候処、牢役人共も白然と私杯赤心へ相感候都合に而、追々気を付致呉、彼是仕候而、十一月二日に至り遂に曳出有レ之、赦免に相成申候(後略) 大体以上のような情況であった。 なお、この書簡には述べられていないが、赤根は五月に、郁太郎は翌開五月に、獄中より上書して、幸に寛大の処置を以て放免されるならば、幕長関係の調整に尽力するであろうと申立てている。(中山忠能煽歴史料-日本史籍協会刊) しかし、上書に対する反応がないので、赤根は獄中で、 桜山昔日鐵花地慨慨何人祭我魂 を緒連とする辞世の七言律詩を作り、密に断罪の日に備える覚悟を定めていたようである。 ところが、二人は郁太郎の前掲書簡にあるように、十一月二日になって突然放免されたのであるが、これは大目付永井主水正の指示に従ったもので、永井がこの指示を与えるに至ったのは、伊東甲子太郎の周旋によるものと伝えられている。当時、実際に事に当った伊東の同志篠原泰之進(後、秦林親)の遺談がある。 長州奇兵隊の隊長でありましたが、赤根武太郎、渕マ〒上幾太郎と此両人は、元治甲子年夏奇兵を引連れ嵐山で敗北(ごれは篠原の思違いで、赤根の率いる奇兵隊は、馬関方面防衛の任を帯ぴ、守備地域を離れられぬため、蛤御門の役には参戦していない一の後、大坂の道頓堀で米屋をしました(これも誤り)。赤根が主人となって渕上が番頭となって居りましたが、是は探偵が暴露しました。遂に京都の六角の獄屋に入れました所を、伊東甲子太郎が私共に談示しまして、どうかしてあの者を長州に送りたならば、大に長州の力になるであろうという所で、近藤勇、永井玄蕃頭を謀り、偽り談じまして、私も其傍ら随いて行きました。如何にも尤もなことであるから出したいといった。其論たるやあの牢人は奇兵隊の隊長である。あれを徳川に引込まるれば、長州を引込むこと眼前にあるというのでありました。(史談会速記録七八輯) 以上細部については思い違いもあるが、大体においてこの通りであったであろう。 出牢後の郁太郎ら両人の消息も、また既出の郁太郎書簡に極めて明確に述べられている。それによると、二人は牢より出されて町奉行所において衣服大小を支給され、役人から、「兼てより聞及ぶ所によると、貴公等は報国の士の由である。今や天下非常の際であるから、粉骨砕身公武の融和と、長州問題の善処について周旋されたい」との告諭を受けた後、大目付より差廻しの駕籠で目付戸川鉾三郎の旅宿へ案内され、戸川から色々相談を受けた後、その夜直ちに戸川と同船で大坂に下り、五・日まで大坂に滞留した。翌六日、大目付の永井、目付の戸川、同じく目付の松野孫八らと共に大坂を出立、道中すべて幕府の役人並の丁重な取扱いで、十六日広島についたとある。(付記参照) 遂二放免ヲ得テ両人ヲ山城国葛野郡梅津村荘官申路角右衛門方へ預ケ、種々説得二及ビ云々 とある。しかし、既述の如く両人は出獄当日、目付戸川鉾三郎らと下坂したのであるから、このときには中路邸が介在しうる余地はなかった筈である。 「始末記」中の馬場文英の註記にも、 付記 武人が赦されて故郷に帰ってきたとき、私は先輩連の尻について、某氏の家で彼の話を聞いた。談たまたま放免の理由に及ぶと、武人は「慕府は安政戊午の大獄を起し、却て天下の有志を奮起させる結果になった。いま彼等はこれに懲りて、一人の武人を刑するも大勢に影排せず、もし刑すれば徒に長州人士を刺激するのみと判断して、僕を放免したものと思う」と語った。理路整然として、その時は一片の疑いもはさまなかったが、後年、『新撰細始末記』を一読し、その説く所が最も事実をえているように感じた。(原文は漢文調の文語文) |