郁太郎に危機迫る
前年(慶応元年)十一月に郁太郎と共に防長に潜入し翌月郁太郎と挟を分った後も、長州に留まった赤根武人は、郷里附近の阿月、岩国あたりに潜伏していたが、十二月末、生家の所在地である柱島において藩吏に捕えられ、正月三日、山口に送られ、唯一回の取調べもないまま十八日には、「奇兵隊総監所勤申脱走せしめ、上国において相捕えられ、獄中より存外の書面を差出し、帰国の上も数十日の間所々に忍隠れ、多年の御厚恩を忘却し、不忠不義の罪遁れ難い」という罪案も定まり、正月二十五日、鰐石で斬罪葉首の刑に処せられた。年は二十八歳であった。
今日、我々は、「中山忠能履歴史料」の中に、赤根の「急務五策」と題する藩府への献言書の写を見出すことができるが、これは特に「存外な書面」という程のものではない。また、この他に長州征討の策を巨細にわたって論じた上書もあるというが、周南逸史はこれを、「其他人の疑作たること一見して知るべし」と断じている。
彼は、文を僧月性、梅田雲浜、桜任蔵、羽倉外記に、剣を斎藤弥九郎に就て学んだ文武の秀才で、吉田松陰にも嘱目されていた。高杉晋作とは、文久二年御楯組縞成以来の血盟の同志で、彼の創設した奇兵隊にあっていち早く頭角を現し、三代目総監として、長州諸隊の間に隆隆たる声望があったが、征長戦下における藩論一定の方法について高杉と対立したことと、大坂で慕吏に捕えられ後に赦されたことが因になり、不幸、反逆の徒として極刑に処せられたのである。赤根については、栗原隆一著『幕末諸隊始末』(新人物往来社)中の「奇兵隊」の章を参照されたい。
赤根が逆徒として長州藩府によって処断されるに及び、旧同志の郁太郎に対する疑惑も決定的なものとなり、「渕上斬るべし」の声が高まってきた。当時長州にあった対馬脱藩士多田荘蔵は、同藩の吉田某を太宰府に走らせ、赤根の処刑を謙三に伝えると共に・郁太郎の身が危いことを教えた。謙三は、感謝して、早速兄に、「早早御転所然る可く存奉り候(三月朔日付謙三書簡)と報じている。
しかし、郁太郎は七月初めまでは、依然として林田恭平と変名して、肥前にいた様子で、その後いよいよ田代も危くなって、三池郡加納村(今は大牟田市内になっていると思われる)の安部後哲の許へ移ったのが九月上旬のことであった。土方久元の「回天実記」には、郁太郎が、田代の神宮三橋参何守の家に潜んでいると判って、有志が斬好に向ったが取逃したとあるが、多分その頃のことかと思われる。
とかくしているうちに、刺客に覗われていた郁太郎よりも、太宰府で忠実に五卿守衛の任に当っていた謙三(当時芳木春太郎と称す)のほうが、先に死なねばならぬような事態が発生した。事の次第は「回天実記」に詳しい。
八日(十一月)晴(前略)櫛田速男ヨリ芳木春太郎へ.絶交之段申出候二付取糺候所、春太郎兄渕上郁太郎ハ久留米藩正議之者二有之候処、先達長藩赤根武人ト共二慕府二被捕、段々詰間二逢ヒ、遂ニハ致反覆長藩ヲ討ノ策ナト相立、其ヨリ被許出牢、追テ赤根ハ於長州死罪二被処、渕上ハ国許ヨリ探索致候処、田代ノ神官三獲ト申者之世雪以テ潜伏泰相知レ有志輩舞二向ヒ候得共取逃シ候様子。然二同人ハ郁太郎ト書簡共往復致シ、且神宮モ度度当方へ致往来候由ニテ実二言語同断之不議者二付云々、聞捨ニモ難成儀二付、同志共ト反復議論之上、久留米藩へ忠皆致シ、割腹可然段申述相別レ候也
九日晴(前略)芳木儀二付五卿方ニモ御配慮被為在、今日モ久留米藩士ト頻二議論ス
十日晴早朝ヨリ参殿、今暁芳木儀致割腹候段内々申上、表向ハ急病ニテ致処置候也(後略)。
同志に切腹を迫られるや、謙三は従容として宿舎小野加賀邸の庭に設けられた座につき、美事に割腹した。歳は二十歳であった。死に臨み、
満腔志心不自疑、死而長為忠義鬼
という絶命の詩を残した。
郁太郎は、謙三の死を聞き、危険を昌して生家に帰り、祭文を草してその霊を祭った。文中に「満腔云々之語、腸実寸断血涙如雨。鳴乎吾死猶有余罪焉」の辞句を見るが、志心空しく水泡に帰して死なねばならなかった謙三の胸中も、わが身にまつわる疑惑から弟にかような死を致させた郁太郎の心中も、誠に察すべきものがある。
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