エピローグ
暗殺された郁太郎の屍について、『報効志士人名録』は「首は太宰府に送り、屍は同村土手に埋む。数日を経て遺族屍を収めて郷里に殯す」と述べている。一方、『渕上兄弟』には、「その耳を削いて太宰府に持参した』とあり、同書に収められている郁太郎の孫久代、曾孫倭文子の手記によれば、郁太郎の遺体埋葬場所が判明し、遺骨が「歯、印籠、袴の片々を証拠として、最愛の妻政子の胸に抱かれた」のは明治三十五年八月十五日のことであったということになる。いずれが正しいのか未だ確かめていない。当時太宰府には、かつて郁太郎と親交のあった土方久元、真木直人、申岡慎太郎がおり、彼らは何れも日記を残しているが、郁太郎の死については申合せたように一言もふれていない。そこに一種の作為的な沈黙を感じるのは、私の思い過ごしというものであろうか。
伊東甲子太郎の同志篠原泰之進は、郁太郎と同じ久留米藩の出身であるが、彼は、佐幕派の多い藩の重臣層に生れながら生涯尊皇の志を変えなかった水野丹後(正名、号渓雲斎)に一生深い敬愛の念を抱いていた。郁太郎は、どちらかといえば、水野の政敵ともいうべき有馬監物の知遇をえた人であり、水野とは同じ久留米の勤王家でありながら、余り反りが合わなかった。慶応二年春頃の郁太郎の家信の一節に、「乍去少々天下に功業相立候事に付、衆人のねたみは定而可有之、差当り水野丹後杯とは余り心能附合不申侯。然し丹後採も私と不仲にては有損無溢の場合に有之、私に於ては少々も差支え無御座侯」とあるが、水野も中々鋭敏な人だったから、こうした郁太郎の気持はすぐに察しがついただろうし、彼に対して余りよい感情を抱いてはいなかったとみてよい。
こうした経緯からかどうか知らぬが、篠原(即ち秦林親)は、後年史談会で実歴談を発表するに当っても、自分の敬愛していた水野(彼は明治四年国事に罪をえて、翌年弘前の監獄で不遇の死をとげた)のことは良くいうが、渕上のことは散々こきおろしている。
そこで勘ぐれば、伊東が慶応三年二月二日に太宰府に水野を訪れたとき、何の気なしに、つい先日三池で御同藩の渕上君に会いましたと語ったところ、「あれは斬奸することになっているから君も協力してくれ」と水野から要請され、三池に戻ってから新井にその旨を含めたと考えられなくもない。しかし、そこまで想像するのは、もはや「史話」の領域ではなく、明かに「フィクション」の分野であろう。それに、暗殺の状況と新井が刺客の一人であったという想定とは、既述の如く巧く噛み合わないのである。
郁太郎の遭難の地には、「勤王之志士贈正五位渕上郁太郎祐広遭難之地」という立派な碑が立っている。郁太郎の事蹟顕彰に熱心だった水田の郷土史家坂本久蔵という人が、渕上家の人々や地元の有志と謀って昭和十七年に建立したものであるという。
最後に、資料を提供して下さった渕上いちの氏に深く謝意を表してこの稿を終りたい。
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