伊東、新井九州に来る
渕上家には、渕上兄弟の生家に宛てた書簡、兄弟間で交信した書簡が残っており、それにより彼等の動静志望を窺いうるのであるが、それらはすべて慶応二年十一月十日、即ち謙三自裁の日以前のもので、それ以後の郁太郎の家信は一通も残っていない。したがって、それ以後の彼の動静には不明な点が多いが、依然として名を阿部春介と変えて、三池郡加納村安部後哲の家に潜居して、時勢の好転を待っていたものと思われる。
慶応三年正月十八日、新選組からの分離策を胸中に秘めて、組の参謀伊東甲子太郎は、志を同じくする部下の浪士調役にして剣術指範方を勤める新井忠雄を帯同して、九州遊説の旅に立つべく、京を出て伏見寺田屋に入り、ここで同行を約していた寺田某と会って、それより一行は淀川を下った。
伊東、新井の九州行は、伊東一派が新選組から分離するために取った手段、方法を考察する上に極めて重要な意味を持つものであるが、これは本稿の主題と直接関係がない問題であるから、他の機会に論じたいとおもう。
一行は、二十日兵庫から蒸気船に乗じて西航、二十二日豊後佐賀関で小舟に乗替え鶴崎に至り、翌日同地を発し、豊後、肥後を経て二十七日三池に至り、土地の有志で郁太郎の友人である清水源吾左衛門の家に投じた。以上の旅程は、慶応三年正月十八日伊東、新井の京出発に始り、同年三月二十一日の伊東一派の新選組脱隊を以て終る伊東その人の日記(参考)により知りえたものである。この日記の正月二十八日の条下に次の記事がみえる。
二十八日、阿部、下川、渕上などいふ人々来会。
文中の阿部は、当時郁太郎の潜居先であった三池加納村の安部後哲、下川は郁太郎の妻政子の弟で久留米勤王党の有志下川根三郎と判断して間違いなかろうし、渕上が郁太郎その人であることは申すまでもない。
この記事は、郁太郎の生存中に書かれた同時代人の書簡や日記の中では、彼の生前の動静を記録した最後のものではないかと考えられる。それから僅か十九日後には、郁太郎は既にこの世の人ではなくなっているのである。
なお、伊東、新井と郁太郎とは、慶応元年末頃一別以来、一年数ケ月振りでの再会であったと思われる。既に勤王運動に専心すべく新選組から分離する決意を固めていた伊東は、郁太郎目下の境遇についてはもとより知る筈もないから、彼の協力をえて筑後、肥後辺の有志と大いに交友を結びうるものと期待していたに相違あるまい。かかる周旋は、文久元治年間の郁太郎にとっては、誠に易々たることであったが、いまの彼は、うかつに有志と称する連中に近よれぬ身の上であった。
伊東は、一月二十九日、新井、寺田らと別れ、清水源吾左衛門と共に太宰府に向い、翌々日の二月二日に太宰府着、清水の紹介をえて水戸人宇田兵衛と仮称して、五卿随従の志士達に面会、四日まで連日、水野正名、直木外記、申岡慎太郎、土方楠左衛門、吉田清右衛門(薩藩士)らと時事を論じた模様である。これは、伊東日記、回天実記(土方手記一、日知録一真木手記)、行々筆記一中岡手記)によりほぼ察しうるところである。
伊東と清水は、翌五日朝太宰府を出立、六日三池に戻り、九日まで同地にあった。
六日三池泊、二子に面会。渕上嫌疑により肥後周旋相ならず。
七日尽力周旋の手続相談、何分議論一定せず。
八日同断。(伊東日記)
なお六日の条下にある「二子」の一人は、新井忠雄ではないかと考えられる。「伊東日記」正月二十九日の条にある「忠子は肥後人応接す」という記事から、新井が肥後方面の周旋に当っていたものと判断されるからである。他の一人はあるいは渕上郁太郎であるかもしれない。
その後、伊東と新井は再び別行動をとり、伊東は二月九日三池を出立、肥後の杖立、豊前の添田、英彦山より岳滅鬼峠越えに豊後に入り、幕領日田に着いた。
十六日岳滅鬼嶺を越えて日田に出で、大いに嫌疑をうけし折、月光山の端に出で日田河原に移りし影を見て、
真心の清きをいかにくらべみん日田の河原の春の夜の月
十七日二子道を別けて出立、我のみ一人旅店に在り窪田治部に面会を乞ふ。同人殊に嫌疑強く、廿日まで当所に滞在、内海多次郎殿帰るに逢ひて氷解、出立の事を計る。(伊東日記)
文中の窪田治部右衛門は日田郡代であり、内海多次郎は代官であるが、伊東の受けた嫌疑の内容は不明である。ここで我々は、伊東が二月十六日から二十日まで、日田に足止めをくっていたことを覚えておくべきである。
伊東の日記は、その死後、彼の同志であった秦林親が所蔵し、その嗣子泰親が大切に保存していたが、泰親は富山市弥生町に居住中、昭和二十年八月一日米軍の空襲により父の遺稿その他一切を灰にしたというから、この日記もまたそのとき鳥有に帰したものと思われる。(釣洋一氏の調査による)
昭和十五年に、伊東の弟鈴木三樹三郎の女婿に当る英語学者小野圭次郎が、父小野良意の伝記を発行するに当り、伊東と鈴木の伝記をも併せて執筆して一本に収めた。このとき小野は、泰親から伊東の手記を借りて、その全文を同書の「伯父伊東甲子太郎武明」と題する伊東の小伝の中に収録した。これによって、いまなおこの手記を参照できるのは、我々研究者にとって非常に幸いなことというべきである。本稿では、この手記を仮に「伊東日記」と呼んでおいた。なお、この日記は「伯父伊東甲子太郎武明」が『新選組覚え書』(新人物往来社刊)に収められるに至り、ますます参看し易くなった。
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