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『共同研究新選組』(昭和48年)初出の「渕上郁太郎暗殺始末」を、著作者の許可を得て掲載しています。

渕上郁太郎暗殺始末
by 市居浩一氏

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渕上郁太郎斬殺

 郁太郎の生家跡のある筑後市水田は、筑後市の中心部から西南三、四キロにある。同じ筑後市の中心部から、水田とは反対の東南五、六キロのところに、福岡県山門郡東山村大字広瀬(山中)というところがある。(厳密には「あった」というべきであろう。東山村は、確か昭和三十一年に山門郡瀬高町に編入された筈であるから)この地は、維新前は柳河藩領で、山中村と称していた。
 隣の久留米藩領の水田村から、この山中村に嫁にきた田中きたという女性が、慶応三年二月十八日の午後六時頃、殺人事件を目撃した、彼女の家の東側の窓が、偶然現場を直視できる一にあったからである。彼女の目撃談は大体次の通りである。

その日の暮六ツ頃、山中部落字手付の地蔵堂の西の一本楠の辺から、呼子の音が聞え叫声が上り騒然となりましたので、驚いて見ておりますと、覆面をし充分身ごしらえを整えた十数人の侍が、一人の武士を取囲んで斬合っておりました。戦闘は大変激しく夜を徹して行われ、暁け方になって静かになりました。翌日になって殺されたのが水田村の渕上郁太郎という人であることが判りました。(筑後史談会編『渕上兄弟』昭和三十二年同会刊による)

医者で学者であり、武術のほうは余り練達していなかった筈の郁太郎を襲った暗殺団としては、刺客の数が多すぎ、戦闘の時間も長すぎるように思えるが、何しろ唯一の目撃者の談話であるらしいから、一応尊重せざるをえないであろう。事実とすれば、郁太郎は余程死物狂いで抵抗したものとみられ、また刺客の中には腕の立つ者がいなかったということになりそうである。
 ただし、刺客が複数であったことと郁太郎が相当激しく抵抗したらしいことは、筆者が昭和十七年京城に遊んだとき、当時同地に住んでおられた郁太郎の曾孫士竜氏を訪い、郁太郎暗殺の景況について教示を請うた際、士竜氏が祖母(郁太郎の一人娘まき1昭和二十三年没)より伝え聞いた話として語られた談話にも、「刺客は数名で、現場付近の木には、多くの刀痕が残っていたそうです」とあったのを記憾しているから、まず間違いあるまい。

いずれにせよ、かつて「一家勤王に相潰れ候様御思召、何事も藩之一事へ御帰せ下さるべく候(文久三年八月家信)」と家産を顧みず、弟と共に尊擦運動に没頭し、初対面の久坂玄瑞をして、「是男は今年廿七歳にて余程沈実楼毅の人と相考えられ候(中略)談数刻益其人の沈実を感ず」(江月斎日乗-文久二年二月十九日)と讃歎させた一人の有為な壮士が、こうして甚だ事志と違う死を遂げたのであった。彼もまた、生れでようとする新しい時代が非惜に要求した数多くの犠牲者の一人であっ狂といえよう。郁太郎は時に三十一歳であった。
 つぎに、刺客に関する諸説について、いささか検討を加えてみたい。なお、以下の諸説に冠した人名は、いずれも現場で行動した人物、即ち刺客を意味し、現場以外の場所で指令を発した人は含んでいないものと解して頂きたい。

(一)伊東、新井共同説

寡聞な筆者の知る限りにおいては、信頼できる史籍では、次の四書が本説を採っている。

   真木和泉守遺文 真木和泉先生顕彰会編 大正二年 伯爵有馬家修史所刊
   贈位諸賢伝 田尻佐著 昭和二年 国友杜刊
   新撰組史 平尾道雄著 昭和三年 自費出版
   新撰組史録 平尾道雄著 昭和十七年刊 出版社名失念

前掲四書のうち、第一に掲げた『真木和泉守遺文』には、有馬伯爵家修史所が参照しうる限りの維新史料を駆使して作成した詳細な年譜が付いており、その慶応三年の項には、

二月十八日、我渕上郁太郎、新徴組脱徒伊東甲子太郎、新井忠雄のために、筑後柳川領山中林中に誘殺せらる。享年三十一。

と明記されている。この年譜の作成者が、如何なる史料に基いて本説を採るに至ったかは、今質すべきすべもないが、恐らくは、西村兼文著『新撰組始末記』に加えた馬場文英の、

伊藤甲子太郎、新井忠雄ト共二、九州遊説二巡回シタル時、筑後高良山ノ麓二て伊藤二別レ、新丼卜二人ニテ太宰府二由ントスルタ刻、如何ナル事ニヤ、渕上落命セリトキケリ。

という註記か、秦林親が明治三十一年一月十四日史談会で行った談話中の、

此渕上幾太郎は容易ならぬ者でありました。伊藤甲子太郎と新井陸之助と此三人が、太宰府へ三度も参りまして、水野と談判して、寄々申合せて、渕上がどうしても徳川に随従して軍艦を率へて、馬関を打攘うという策を桁えました。それで遂に渕上郁太郎は天命か天誅かなくなってしまいました。(史談会速記録七八輯)

  という部分に拠ったものかと思われる。なお、第二以下の史籍が本説を採ったのは、すべて「真木年譜」を参照した結果とみてよいであろう。ただ平尾氏はさすがに慎重に、「一説によると」とか「とも伝えられる」(いま氏の前掲両書を手許に持たぬため、忠実な引用ができない)という表現を用いて断定を避けている。叙上の如くこの説は、信頼するに足る史籍の採用する所ではあるが、事件当日に伊東が日田にいたという明確・な記録がある以上、決して成立しえないものと断じるの他ない。

(ニ)新井単独説

 本説を採るものは、次の二書であり、著者は何れも平尾道雄氏である。

 奇兵隊史録 昭和十九年 河出書房
 新撰組史録 昭和四十一年 白竜杜

先に伊東、新井共同説を採られた平尾氏が、ここで新井単独説に意見を変えられたのは、『奇兵隊史録』執筆前に、「伊東日記」を参看される機会があったからであろう。なお、前掲二書においてもやはり平尾氏は断定は避けておられる。さて、ここで、新井単独刺客説の当否について判定を下さねばならぬわけであるが、筆者は本説を否定するも.のである。理由は、本章の初めに述べた通り、刺客は単数でなく複数であるべき筈だからである。

(三)広田彦麿一派説

史談会編『報効志士人名録二』(明治四十四年同会発行)にある渕上郁太郎伝がこの説を採っている。この人名録は、発行の前年に史談会が百余名の維新志士に対する贈位を請願したときに、請願書に添付した各志士の事蹟書を印刷に付し公刊したものである。同書には、「慶応三年丁卯二月十八日、筑後柳河藩領中村に潜む。同藩人窪田彦丸等五六人の襲ふ所となり殺害せらる云々」とあるが、これは事蹟書作成者が、郁太郎の妻政子未亡人(大正五年没)からえた談話によって記述したものであろう。渕上家では代々広田彦丸説を採っているから、執筆者が聞き違えて窪田と記したもの、と思われる。但し、正確に申せぱ広田彦麿である。戦時申に出版された森繁夫氏の『人物百談』によると、広田は、筑後山門郡瀬高村字八幡社人で、勤王家とあり、天保元年の出生で明治二十九年、六十七歳残とある。瀬高村なら郁太郎の遭難現場とは、今では同じ町域内になっている位であるから、まず目と鼻の先といってよい所である。

私は以前から、郁太郎暗殺の刺客に関する諸説のうち、この広田一派説に最も傾いているのであるが、残念ながら決定的な証拠がないので断言は致しかねる。しかし、心証的にいえぱ黒である。その理由は、

一、刺客に関する情報を最も豊富に持っている筈の渕上家の遺族が、この説を採っていること。

二、広田に十分すぎる位の土地勘があったと推定されること。

三、広田は、広沢真臣(長州出身の参議で明治四年正月九日暗殺)事件に関係があるのではないかというので、昭和十四年頃伝記学会で話題になった人物であり、相当思い切ったことをやるタイプの男であったように思われること。大体以上の通りである。

(四)伊東、新井、彦田一派共同説

私はかような説の存在することを知らなかったのであるが、最近本稿執筆のために、郁太郎の曾孫士竜氏の未亡人いちのさんから、『渕上兄弟」(筑後史談会編・昭和三十年同会発行)を借覧するに及んで、初めて本説に接したのである。こう申すと『渕上兄弟』の執筆に当られた方に大変失礼に当るかもしれぬが、同書の執筆者は「真木年譜」にある伊東、新井説も捨て難く、また『報効志士人名録』にある広田一派説も捨て難く、さればと許り両説を併合して本説を生み出したのではないかと推察する。
 本説の検討に当り、まず伊東は第一説に関して述べたように刺客ではありえないから、いまこれを仮に新井、広田一派説と読み替えて話を進めることにする。また、広田一派が刺客であることの可能性については、第三説において既に述べたから、ここでは、新井が暗殺者の一味に加わっていたか否かを吟味するだけでよいであろう。それにはまず、事件当時における彼の足取を追わねばならぬわけだが、そのための史料は皆無とはいわぬが極めて乏しい。
 前章で述べた通り、二月九日(慶応三年)併東と新井は三池で一たん別れて別行動をとった模様である。別行動をとったとはっきり書いてはないが、「伊東日記」の次の筆遣いは、新井の、同行を示唆するものではない。

九日夜行肥後領ツイタテと云ふ処に行く。山間にて甚だ難渋至極に及ぶ。其夜三池より三里程離れたる所にて大河内と面会す。長州の形勢を尋ねて其詳を得ず。(後略)
 十日農家に泊。十一日同。十二日同。

さて、九日以後、約十日間の新井の足取は、典拠すべき史料がなく全く不明であるが、二十日に至って、彼の名を二人の維新志士の日記に見出すことができる。一人は久留米の真木外記(直人)、他の一人は土佐の土方楠左衛門、何れも当時三条実美らに随従して太宰府にあったことは既記の通りである。まず真木の「日知録」について見よう。

二月廿日荒尾唯雄護送解兵書ヲ持来ル約束ニテ大切ナルモ遂二来リ、其日七ツ半ヨリ又崎陽二行也(二月十七日事也)

もし、新井の太宰府訪問が真木の割註の通り十七日のことであり、かつ彼が真木の手記したようにその日の七ツ半一午後五時)崎陽、即ち長崎へ向ったとすれば、新井もまた刺客の容疑圏からやや遠のくことになる。なぜなら、郁太郎の遭難現場は太宰府から長崎への道筋からはかなり逸れるからである。
 ところが、土方の「回天実記」の同じ二月二十日の項には、

 参殿セス、八ツ時頃ヨリ外出、暮頃帰宿。水野渓雲斎来リテ日ク、過日面会之宇田兵衛同志之者成尾退蔵(実名新井忠雄)ト申ス者、今日罷越別紙二通密二相渡シ候上、何歎御用共ハ御座無候哉ト申事故、差当リ格別モ無之、尚京師及浪華河之儀宜敷頼入ルト申候得バ、承知ニテ直様罷帰候云々。

 とあり、新井の太宰府訪聞を二月二十日のことと記している。ここで、二月十八日という問題の日をはさんで・当時の新井の消息を記録した、ただ二つの文書に、三日間のずれが出てくるわけである。では、日付に関しいずれの日記がより信頼できるかといえば、それは問題なく土方の「回天実記」である。土方は毎日日記を欠かさずつけているのに引替え、真木は月に二度か、三度しかつけていないし、その日の出来事をその日に記録するという習性も彼にはない。したがって時日を誤る公算は真木のほうが遙かに大きいと見なけれぱならない。(事実彼は、二月二日のこととすべき伊東の太宰府訪間も、正月二十九日のことと記録している)
 ここで新井の足取を整理してみると、

 二月九日三池で伊東と別れる。
 同二十日太宰府に水野、真木を訪う。

 となり、その後二十二日には、佐賀で伊東と再会している(伊東日記)。前記の足取から推定すると、二月十八日郁太郎遭難当日における新井の行動圏は、大体において三池、太宰府、佐賀の三点を結んだ三角形の内側か、その各辺より外側へ十里程度出た地域であったかと思われる。だとすると、事件現場の山申村も彼の行動圏内にある。しかし、それはあくまで、彼が事件当日現場に行くことが、空間的、時間的にみる限り可能であったというに過ぎない。次に、本説の発生した経緯、暗殺の情況などから、この説の妥当性を考察してみよう。

 (一)既記の通り、本説は十分な史料の吟味、検討をえずに、既存の二説を併合することによって生じたものと考えられる。
 (二) 
刺客らは、数名ないし十名程度の多人数で武よりも文の人である被害者を襲い、相当時間にわたる激闘の上、漸く目的を達した形跡が濃厚である。

(一)は本説の根拠の薄弱さを示しており、(二)は剣客雲の如き新選組にあって剣術教授方を勤め、三条制札事件(註参照)で実戦においても遺憾なくその実力の程を示した新井が刺客の一人であったという説と相容れないように思われる。これらの点から考え、私は本説に容易に賛成しかねるのである。以上で、渕上郁太郎暗殺の刺客に関する四つの説についての検討を終ることにする。ここで、筆者自身の判断を付け加えることをお許し願えるなら、私は「刺客は・太宰府、久留米、柳河辺の勤王家と称する人々とみて誤りなく、その首領株が瀬高の人広田彦麿であったという伝聞については、特にこれを否定する材料はない」と申しておきたい。

()慶応二年九月十二日夜、三条橋畔の高札を破却しようとした土佐の壮士と、警備に当っていた新選組隊士との間に起った乱闘をいう。事は、子母沢寛の『新選組始末記』、平尾道雄の『新撰組史録』などに詳しい。

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(2004.10.16)

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