『共同研究新選組』(昭和48年)初出の「渕上郁太郎暗殺始末」を、著作者の許可を得て掲載しています。
渕上郁太郎斬殺 その日の暮六ツ頃、山中部落字手付の地蔵堂の西の一本楠の辺から、呼子の音が聞え叫声が上り騒然となりましたので、驚いて見ておりますと、覆面をし充分身ごしらえを整えた十数人の侍が、一人の武士を取囲んで斬合っておりました。戦闘は大変激しく夜を徹して行われ、暁け方になって静かになりました。翌日になって殺されたのが水田村の渕上郁太郎という人であることが判りました。(筑後史談会編『渕上兄弟』昭和三十二年同会刊による) 医者で学者であり、武術のほうは余り練達していなかった筈の郁太郎を襲った暗殺団としては、刺客の数が多すぎ、戦闘の時間も長すぎるように思えるが、何しろ唯一の目撃者の談話であるらしいから、一応尊重せざるをえないであろう。事実とすれば、郁太郎は余程死物狂いで抵抗したものとみられ、また刺客の中には腕の立つ者がいなかったということになりそうである。 いずれにせよ、かつて「一家勤王に相潰れ候様御思召、何事も藩之一事へ御帰せ下さるべく候(文久三年八月家信)」と家産を顧みず、弟と共に尊擦運動に没頭し、初対面の久坂玄瑞をして、「是男は今年廿七歳にて余程沈実楼毅の人と相考えられ候(中略)談数刻益其人の沈実を感ず」(江月斎日乗-文久二年二月十九日)と讃歎させた一人の有為な壮士が、こうして甚だ事志と違う死を遂げたのであった。彼もまた、生れでようとする新しい時代が非惜に要求した数多くの犠牲者の一人であっ狂といえよう。郁太郎は時に三十一歳であった。 寡聞な筆者の知る限りにおいては、信頼できる史籍では、次の四書が本説を採っている。 真木和泉守遺文 真木和泉先生顕彰会編 大正二年 伯爵有馬家修史所刊
贈位諸賢伝 田尻佐著 昭和二年 国友杜刊 新撰組史 平尾道雄著 昭和三年 自費出版 新撰組史録 平尾道雄著 昭和十七年刊 出版社名失念 前掲四書のうち、第一に掲げた『真木和泉守遺文』には、有馬伯爵家修史所が参照しうる限りの維新史料を駆使して作成した詳細な年譜が付いており、その慶応三年の項には、 二月十八日、我渕上郁太郎、新徴組脱徒伊東甲子太郎、新井忠雄のために、筑後柳川領山中林中に誘殺せらる。享年三十一。 と明記されている。この年譜の作成者が、如何なる史料に基いて本説を採るに至ったかは、今質すべきすべもないが、恐らくは、西村兼文著『新撰組始末記』に加えた馬場文英の、 伊藤甲子太郎、新井忠雄ト共二、九州遊説二巡回シタル時、筑後高良山ノ麓二て伊藤二別レ、新丼卜二人ニテ太宰府二由ントスルタ刻、如何ナル事ニヤ、渕上落命セリトキケリ。 という註記か、秦林親が明治三十一年一月十四日史談会で行った談話中の、 此渕上幾太郎は容易ならぬ者でありました。伊藤甲子太郎と新井陸之助と此三人が、太宰府へ三度も参りまして、水野と談判して、寄々申合せて、渕上がどうしても徳川に随従して軍艦を率へて、馬関を打攘うという策を桁えました。それで遂に渕上郁太郎は天命か天誅かなくなってしまいました。(史談会速記録七八輯) (ニ)新井単独説 先に伊東、新井共同説を採られた平尾氏が、ここで新井単独説に意見を変えられたのは、『奇兵隊史録』執筆前に、「伊東日記」を参看される機会があったからであろう。なお、前掲二書においてもやはり平尾氏は断定は避けておられる。さて、ここで、新井単独刺客説の当否について判定を下さねばならぬわけであるが、筆者は本説を否定するも.のである。理由は、本章の初めに述べた通り、刺客は単数でなく複数であるべき筈だからである。 (三)広田彦麿一派説 史談会編『報効志士人名録二』(明治四十四年同会発行)にある渕上郁太郎伝がこの説を採っている。この人名録は、発行の前年に史談会が百余名の維新志士に対する贈位を請願したときに、請願書に添付した各志士の事蹟書を印刷に付し公刊したものである。同書には、「慶応三年丁卯二月十八日、筑後柳河藩領中村に潜む。同藩人窪田彦丸等五六人の襲ふ所となり殺害せらる云々」とあるが、これは事蹟書作成者が、郁太郎の妻政子未亡人(大正五年没)からえた談話によって記述したものであろう。渕上家では代々広田彦丸説を採っているから、執筆者が聞き違えて窪田と記したもの、と思われる。但し、正確に申せぱ広田彦麿である。戦時申に出版された森繁夫氏の『人物百談』によると、広田は、筑後山門郡瀬高村字八幡社人で、勤王家とあり、天保元年の出生で明治二十九年、六十七歳残とある。瀬高村なら郁太郎の遭難現場とは、今では同じ町域内になっている位であるから、まず目と鼻の先といってよい所である。 私は以前から、郁太郎暗殺の刺客に関する諸説のうち、この広田一派説に最も傾いているのであるが、残念ながら決定的な証拠がないので断言は致しかねる。しかし、心証的にいえぱ黒である。その理由は、 一、刺客に関する情報を最も豊富に持っている筈の渕上家の遺族が、この説を採っていること。 二、広田に十分すぎる位の土地勘があったと推定されること。 三、広田は、広沢真臣(長州出身の参議で明治四年正月九日暗殺)事件に関係があるのではないかというので、昭和十四年頃伝記学会で話題になった人物であり、相当思い切ったことをやるタイプの男であったように思われること。大体以上の通りである。
(四)伊東、新井、彦田一派共同説 私はかような説の存在することを知らなかったのであるが、最近本稿執筆のために、郁太郎の曾孫士竜氏の未亡人いちのさんから、『渕上兄弟」(筑後史談会編・昭和三十年同会発行)を借覧するに及んで、初めて本説に接したのである。こう申すと『渕上兄弟』の執筆に当られた方に大変失礼に当るかもしれぬが、同書の執筆者は「真木年譜」にある伊東、新井説も捨て難く、また『報効志士人名録』にある広田一派説も捨て難く、さればと許り両説を併合して本説を生み出したのではないかと推察する。 九日夜行肥後領ツイタテと云ふ処に行く。山間にて甚だ難渋至極に及ぶ。其夜三池より三里程離れたる所にて大河内と面会す。長州の形勢を尋ねて其詳を得ず。(後略) さて、九日以後、約十日間の新井の足取は、典拠すべき史料がなく全く不明であるが、二十日に至って、彼の名を二人の維新志士の日記に見出すことができる。一人は久留米の真木外記(直人)、他の一人は土佐の土方楠左衛門、何れも当時三条実美らに随従して太宰府にあったことは既記の通りである。まず真木の「日知録」について見よう。 二月廿日荒尾唯雄護送解兵書ヲ持来ル約束ニテ大切ナルモ遂二来リ、其日七ツ半ヨリ又崎陽二行也(二月十七日事也) もし、新井の太宰府訪問が真木の割註の通り十七日のことであり、かつ彼が真木の手記したようにその日の七ツ半一午後五時)崎陽、即ち長崎へ向ったとすれば、新井もまた刺客の容疑圏からやや遠のくことになる。なぜなら、郁太郎の遭難現場は太宰府から長崎への道筋からはかなり逸れるからである。 (一)は本説の根拠の薄弱さを示しており、(二)は剣客雲の如き新選組にあって剣術教授方を勤め、三条制札事件(註参照)で実戦においても遺憾なくその実力の程を示した新井が刺客の一人であったという説と相容れないように思われる。これらの点から考え、私は本説に容易に賛成しかねるのである。以上で、渕上郁太郎暗殺の刺客に関する四つの説についての検討を終ることにする。ここで、筆者自身の判断を付け加えることをお許し願えるなら、私は「刺客は・太宰府、久留米、柳河辺の勤王家と称する人々とみて誤りなく、その首領株が瀬高の人広田彦麿であったという伝聞については、特にこれを否定する材料はない」と申しておきたい。 (註)慶応二年九月十二日夜、三条橋畔の高札を破却しようとした土佐の壮士と、警備に当っていた新選組隊士との間に起った乱闘をいう。事は、子母沢寛の『新選組始末記』、平尾道雄の『新撰組史録』などに詳しい。 |