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年号 (西暦) |
歳 | できごと |
元治1 (1864) |
30 | 江戸での新選組隊士募集に応じて上洛。 *上洛&新選組入隊時期は、伊東らと同じ頃と推定されるが、御陵衛士同志の記録に在府時の新井との交流を示す記述が見当たらないので、伊東らとの交友は新選組で始まったものとみていいと思う。 |
慶応1 (1865) |
31 | 夏−新編成で、諸士調役兼監察、及び剣術師範に任命される。(「壬」) 11月−近藤・伊東らの広島出張に同行。 *諸士調べ役として優秀なので近藤に選ばれたのか、すでに伊東と懇意になっており、伊東の推薦で選ばれたのかは不詳 |
慶応2 (1866) |
32 | 2月−河合喜三郎斬首を諌止したともいう。(『始』) 9月−三条制札事件に監察として参加。 |
慶応3 (1867) |
33 | 1月−伊東・新井、九州遊説に出発。(「九」) |
2月−真木外記・水野渓雲斎と面談 (「九」) | ||
3月10日−朝廷の武家伝秦より、伊東ら十数名、山陵奉行配下御陵衛士を拝命(「秦」) 3月−伊東と帰京。 3月20日−新選組から分離。(「九」) |
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5月−大宰府へ。三条西季知らと面談。朝廷の情勢を伝える | ||
8月−伊東とともに大宰府へ。真木外記と面談。 | ||
11月14日−同志募集のため、江戸へ向けて京都を出立。(「秦」) 11月18日−油小路事件時は不在(「秦」)。(参照:伊東、新選組に暗殺される、油小路事件) *剣術師範だった新井、伊東道場で師範代を務めた内海はともに月真院を留守にしてい不在だった。彼ら両名が現場にいれば闘いの様相も少し違ったかもしれない・・・。 11月20日−新井の妻小静、篠原の妻萩野、伊東の妾が薩摩藩遠武橘次屋敷に逃げ込む。その後、薩摩藩留守居役内田忠之助、高崎左京、大久保一蔵宅に潜伏する。(「秦」) 11月25日−妻たち、伏見薩摩屋敷へ駕籠で送られる。(「秦」) |
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12月12日−同志募集を終えて江戸を出立。(「秦」) 12月18日−伊東らの祥月命日。 (阿部・佐原・内海・篠原・加納・富山、近藤を待ち伏せて襲撃するが、怪我を負わせるだけにいたり、今出川の薩摩藩邸に逃げ込む。(『史』) 12月22日−四日市着。乞食に変装して逃げてきた妻にめぐりあい、油小路事件について知らされ慟哭する(「秦」)。 *何も知らずに帰京してくるだろう新井を案じた妻小静は、恐らく12月中旬に外出許可が下りるやいなや、乞食に変装して京を抜け出し、四日市で新井を待ち受けていたのでは・・・と思う。 12月23日−妻を京都に帰らせ、早朝に四日市を出立し、伊勢経由で京都に向う。(「秦」) 12月25日−泉涌寺近くの井上謙蔵を訪問し、同志の安否を確かめる。薩摩藩邸に潜伏することをきき、夜、合流。(「秦」) |
「墓」=新井の墓碑、「秦」=「秦林親日記」、「岳」=「岳父鈴木三樹三郎」、
「壬」=「新撰組(壬生浪士)始末記」、『相』=相楽総三とその同志』
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