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<要約> 元治元年3月、攘夷先鋒を目指して水戸藩激派(天狗党)が筑波に挙兵した。江戸深川佐賀町の北辰一刀流道場主伊東甲子太郎は、 (参照:御陵衛士の年表「元治元年」) |
■横浜で攘夷の機会を待つ浪士たち 文久2年12月5日、第14代将軍徳川家茂は、破約攘夷を督促する勅使三条実美・姉小路公知に対して攘夷奉承を回答し、15日に諸藩に布告した。幕府幕閣・有司は破約攘夷が不可能であることを知っており、翌文久3年春に予定される将軍上洛時になんとかするつもりだった。諸藩に攘夷の布告を行った。翌文久3年1月7日、「一方の御固め」に「尽忠報国」浪士を募集した(★)。 この頃、攘夷実行の場所と目される横浜で、尽忠報国の機会を待つ浪士たちがいた。篠原泰之進(35歳)、服部三郎兵衛(服部武雄)、加納鷲尾(加納道之助)、佐野七五三之助、柴田小源太、元井和一郎、北村吉六、松本某、中野某、太田某、北川某らである(「秦」)。彼らのうち、篠原・服部・加納・佐野は、のちの御陵衛士同志である。 篠原は筑後出身で、安政5年、久留米藩家老有馬右近の奉公人として出府し、酒井伝次郎(清河八郎の京都挙兵計画に参加するが失敗、潜伏を経て天誅組挙兵に参加。捕縛され、元治2年6月に六角獄で処刑)・妹尾末之進と尊王に尽すことを誓った。桜田門外の変後に脱藩して水戸へ行き、有志と交わったが、翌文久元年に江戸に戻っていたという(「秦」)。加納は伊豆出身で、嘉永6年のペリー江戸に戻った加納は、万延元年(、北辰一刀流千葉栄次郎の道場に入門した(22歳)。文久2年〜。服部は赤穂藩出身で奸臣を斬って出奔したと伝わっている。これが事実だとすると、江戸(横浜)に出たのは文久3年12月末頃となる。佐野は ■伊東甲子太郎とその弟子たちとの出会い 横浜で攘夷の機会を伺う篠原らは、時期不明ながら、のちに盟主と仰ぐことになる伊東甲子太郎と出会っっている。加納が「もともと稽古に参り、師匠同様にして」いたというので、仲介したものと思われる。のちに御陵衛士のリーダーとなる伊東との出会いは、彼らのその後の人生を大きく変えることになった。 伊東は、志筑本堂家(旗本)郷目付鈴木専右衛門の長男に生まれた文武両道の人である。少年の頃、父が家老と対立して閉門・蟄居を命じられた上、脱藩したので、残された一家をあげて母の実家に居候の身となったが、まもなく、ひとり水戸に出て水戸学・剣(神道無念流金子健四郎)を学び、時期・場所は不明だが国学も修めたという。やがて国事に奔走するため江戸に上った。北辰一刀流道場主伊東精一に見込まれて婿養子となって伊東姓を称し、精一の死後、道場を継いでいた。 横浜で活動していた尊攘家篠原泰之進らや筑波天狗党集義隊隊長となった芳野新一郎(桜陰)などと交流を深めていた。一説には、一時上洛したが幕吏に疑われて江戸に戻ったともいう。 その後、彼らは神奈川奉行所窪田冶部右衛門に頼まれて、外国人取り締りを務めたという。同年10月には、篠原らが幕府の役所に乱入した英国人3名を緊縛して海岸に放置したが、英国水兵が多数上陸して騒ぎとなった。同志の中には、これが尊攘の機会だと奮い立つ者もあったが、時勢の得失を判断した篠原は横浜を脱出して、江戸に向ったという。 ■伊東甲子太郎らのちの御陵衛士は? 尊攘に関心のある浪士にとって、その志を活かす機会が幕府募集の浪士組に参加することに限られていたわけではありませんでした。たとえば、「秦林親日記」によると、この時期(文久3年正月)、と横浜における尊攘の機会を待っていたそうです。前年12月、幕府は(表向きには)攘夷を奉勅していました。いよいよ破約攘夷が実行に移されることになれば、その中心となる場は横浜だからでしょう。(その後、8月に幕府は横浜鎖港を決議し(こちら)、横浜は尊攘実行の場としてますます脚光を浴びることになります。加納らは、元治元年3月の天狗党筑波挙兵の際も、横浜での攘夷を実行するときだと喜び、同志の大村安宅を筑波に派遣したといいますし、横浜での攘夷にこだわりがあったようです)。 横浜で攘夷の機会を待っていたメンバーの一人である加納は文久2年以前に伊東に剣を指導してもらったことがあり、伊東を「師匠同様」にしていたそうです。もし、加納の紹介で、文久3年正月頃には既に伊東と篠原らが知り合っていたとすると、伊東も彼らとともに横浜で攘夷を実行する機会を待っていたのかもしれないと思います。さらに想像を広げれば、藤堂を送り出して、京都の情報を持って帰ってもらおうと思ってたかもしれないとか、清河をうさんくさく思ってたかもしれないとか、いろいろありうると思いますけれど、このへんは小説の範疇になっちゃいますネ。あ、なお、藤堂は近藤道場に出入りはしていたようですけれど、沖田や永倉のように剣術道具を置いてはいなかったようなので、伊東の弟子から近藤の内弟子に鞍替えしたとか、食客になっていたかいうのではないようです。 関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館) ■近藤ら応募の経緯 参考までに、永倉新八の晩年の談話等をもとにした読み物『新撰組顛末記』によれば、幕府が「尽忠報告の名をかかげて、ひろく義勇の士を募」ることが「愛国の士をもってみずから任じ、居常攘夷論を口にする」永倉の耳に入り、試衛館で近藤、沖田総司、山南敬助、土方歳三、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎等に向って、「公儀においてひろく天下の志士を募り、攘夷の手段をつくすとのことである。もし事実であるならすすんでわれらも一味となり日ごろの鬱憤を晴らそうではござらぬか」ともちかけたことになっています。さらに、近藤・土方・永倉ら7、8名が浪士取扱松平主税助を訪ねると、幕府が尊王攘夷の本旨から募る浪士の一隊は、来春上洛予定の将軍家茂の警護として京都へ向う予定だと説明したそうで、彼らは即座に加盟したそうです。『顛末記』は永倉の記憶違い、記者の想像・誇張、などなど入り混じっており、史料というにはちょっと(「続再夢紀事」などとは同一には並べられないのでご注意を)なのですが、そこにおいても、募集の本旨は尊王攘夷であり、将軍警護はそのための具体的活動という位置づけだということがわかるのではないでしょうか。また、結果的に永倉たちは京都に長期間滞在することになるのですが、彼ら自身、当初は将軍帰府とともに江戸に戻る予定でいたようです(近藤勇書簡)。 ◆1月16日(3.5):【京】将軍上洛延期運動(10)中根、慶喜に将軍上洛の延期を報告。岡部長常、中根に京都の厳しい情勢を語る/鷹司輔熙に関白宣下の内意/【江】近藤勇、小島家から鎖帷子借用(これ以前に、浪士募集に応じることを決める 伊東は、文久3年当時、数え29歳。志筑本堂家(旗本)郷目付鈴木専右衛門の長男に生まれた文武両道の人である。少年の頃、父が家老と対立して閉門・蟄居を命じられた上、脱藩したので、残された一家をあげて母の実家に居候の身となったが、まもなく、ひとり水戸に出て水戸学・剣(神道無念流金子健四郎)を学び、時期・場所は不明だが国学も修めたという。やがて国事に奔走するため江戸に上ったが、伊東精一(誠一郎説あり)の下で剣を修業しているうちに、見込まれて婿養子となって伊東姓を称し、師の死後、道場を継いでいた。一説には、一時上京したが幕吏に疑われて江戸に戻ったともいう。 道場の塾頭は内海次郎・中西登である。また門弟(寄弟子)に藤堂平助がいた。 筑波天狗党集義隊隊長となった芳野金陵の息子、新一郎(桜陰)とも友人であった。 寄弟子の意味は不明だが、〜。 文久3年初め頃までには天然理心流の近藤勇道場に出入りをしていた。藤堂が近藤道場に出入りするようになったきっかけは不明だし、伊東道場とかけもちをしていたのかどうかも不明である。加納も、伊東に剣を指導してもらい、師匠同様にしていたのが、横浜の金武所で修業をしているので、伊東はそういうことには寛容だったのかもしれない。(なお、近藤の内弟子になったという記述を見かけるが、史料の裏づけはない空想である。こちら) 藤堂は、近藤とともに上京した。近藤が〜ように、尊王攘夷である。また、将軍とともに帰府する <参考文献>「御陵衛士らいぶらり」をご覧ください |
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