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篠原秦之進(秦林親)

名前 篠原秦之進
出身 筑後。石工篠原元助長男。母タキ
生没年 文政11(1828)/明治44(1911)。享年84歳。墓所:青山墓地ニイ−12−3
年表 生い立ち〜上洛 新選組・御陵衛士時代 赤報隊・戊辰戦争 明治

【伊東を補佐した「過激人」】

新選組加盟まで

■久留米藩家老に奉公
篠原は文政11年(1828)、筑後の石工の息子として生まれた。幼少より武芸を好み、久留米藩士に入門して剣術・柔術を学んだ。久留米藩の森兵右衛門に剣術を学び、弘化2年には下坂五郎兵衛に入門した。その間、久留米藩家老有馬右近の奉公人となり、安政5年、篠原(31歳)は有馬の上府に随行して江戸に出た。

江戸藩邸では酒井伝次郎(注1)・妹尾末之進と「王政復古、万苦尊王の一事を興さんと欲し、先ず富国強兵の基礎を謀らんと」話し合ったという。(←「秦林親日記」によるが、この頃から王政復古を考えていたかどうかは一考が必要)

■脱藩・水戸へ
篠原は桜田門外の変後の万延元年4月に脱藩して、水戸へ行き、有志と交わったが、翌文久元年に江戸に戻り、愛宕下の戸塚彦助道場で柔術を修業したという。秋には旗本片山弥二郎にも稽古をつけてもらったようである。

■全国を遊歴
文久3年(1863)1月には、服部三郎兵衛・加納鷲尾・柴田小源太・元井和一郎・北村吉六・佐野七五三之助・松本某・中野某・太田某・北川某らとで横浜における尊攘の機会を待ったという。同年3月の将軍家茂上洛に前後して、篠原は大坂に下り、中国・九州を回り、京摂間で有志と交わり、特に、久留米藩の水野渓雲斎とはともに王事に尽すことを誓ったという。事実ならば浪士組上洛とほぼ同時期である。しかし、5月には大坂を発ち、上総・下総・奥州・越後などを遊歴した。

■横浜で外国人取締
江戸に戻った篠原は神奈川奉行所窪田冶部右衛門(当時定番役頭取取締)に頼まれて、服部三郎兵衛・加納鷲尾・佐野七五三之助・元井和一郎・大村安宅らとともに、外国人取り締りを務めたという。同年10月には幕府の役所に乱入した英国人3名を緊縛して海岸に放置したが、英国水兵が多数上陸して騒ぎとなった。同志の中には、これが尊攘の機会だと奮い立つ者もあったが、時勢の得失を判断した篠原は横浜を脱出して、江戸に向った。江戸では大目付伊沢美作守(=政義)の子の力之進を頼り、その親戚の雅橋勘之助邸に潜伏したという。

大村安宅はこの事件に関連して捕縛され、元治元年12月20日に横浜で切腹に処せられたという。

■伊東甲子太郎と知り合う
事件に前後し、篠原は、深川に住む同志の加納鷲尾の紹介で、佐賀町に道場を開いていた伊東甲子太郎と知り合った。元治元年(1866)に水戸天狗党が挙兵した時、伊東は応援に駆けつけようとして、久留米藩脱藩の古松簡治に「当地に残って有志を後日助けてほしい」と止められたということがあった。それ以来、伊東は篠原・服部・毛内らと、「今や憂国の士は京師に集り、尊攘の計画に尽力する時となった。我らもまた上京して応分の力を国家の為に致さん」と約したという。


注1 酒井伝次郎:のちに清河八郎の京都挙兵計画に参加するが失敗、潜伏を経て天誅組挙兵に参加。これも敗れて捕縛され、元治2年6月に六角獄で処刑
注2 水野渓雲斎:水野正名。文久3年5月に上京。
注3 窪田治部右衛門:文久2年12月9日に浪士取締役を命じられた人物であったが、東帰後の清河八郎の居留地襲撃の謀議に加わったとして、文久3年4月14日、山岡鉄舟らとともに謹慎に処せられた。その後、7月21日に神奈川奉行支配定番役頭取取締に任じられたが、同年12月3日には西国郡代(日田の代官)を命ぜられた。慶応3年2月、九州遊説中の伊東に嫌疑をかけて足止めしている。
注4 伊沢政義:浦賀奉行・長崎奉行を歴任。嘉永6(1853)年ペリー来航後,浦賀奉行に再任され、翌安政1(1854)年日米和親条約に調印した一人。その後、下田奉行・大目付・町奉行留守居などを務めた。文久3年9月10日には大目付から留守居に転任している。
注5 古松簡治:

新選組時代

■伊東らと上京
元治元年10月、近藤勇の江戸における隊士募集に伊東ら同志とともに応じ、加盟希望者(入隊者とは別)として江戸を発った。しかし、半年ほど所用で大坂に滞在し、翌慶応元年5月に西本願寺の新選組屯所に入った。7月には伊東・・富山弥兵衛・茨木司・久米部正親と大和に浪士捕縛に出張。篠原と久米部が、市中で身元不明の4〜5名と行きあたり、1間あまりの乱闘となった。相手は逃げたが、久米部は重傷を負ったという。

また、同年夏の新編成では諸士調役兼監察、及び柔術師範に任命されたようである

■赤根武人・淵上郁太郎の赦免に尽力
また、元治2年10月頃、当時京都の六角獄に囚われていた元奇兵隊総督の赤根武人と久留米の志士淵上郁太郎の赦免に、伊東とともに尽力した。

■広島に出張
慶応2年1月、禁門の変の処分案を長州藩に伝える使節団に近藤・伊東・尾形俊太郎とともに随行して広島へ出張した。このとき、伊東・篠原は近藤・尾形と別行動を取ることが多く、老中小笠原長行や諸藩周旋方(小倉、広島、田辺、筑前藩)らに対して長州寛典・幕政改革を唱えるなど独自の活動を展開。また、近藤・尾形の帰京に同行せず、四国等を回った後、2週間遅れで帰京した。このとき長州へも潜行したという。

■松原忠司の切腹を止める?
慶応2年4月、四番隊組長を務めた松原忠司が亡くなった。西村兼文の『始末記』では、松原は隊務に於いて失敗をして切腹しようとしたところを傍らにいた人物に取り押さえられ、傷は一度は全快したが、平士に落とされて間もなく死んだとされている。子母沢寛の『新選組物語』の「壬生心中」では、松原は自分が殺した浪人安西の妻子の世話を焼いたことを土方に嫌味を言われて憤激し、切腹をはかったとされているが、その切腹を止めた人物が篠原だったとされている。篠原は松原に「先生先生」と呼ばれており、お互い柔術をやっていることもあり、割と胸襟を開いていたという。松原が平士に落とされたときも気の毒に思って土方に談じたり、傷が悪化したときには会津藩の医者を手配したりと面倒を見たという。「壬生心中」では結局、松原は安西の妻と心中をするのだが、それを最初に発見したのも篠原である。子母沢寛の著作には虚実が混じっており、真偽は不明である。

■武田観柳斎暗殺に関与?
五番隊長武田観柳斎は甲州流軍学を納め、他に人材のいない新選組では重宝され、軍学師範として隊の調練を行うなど勢力があった。金策などを勝手にしていたが、誰も告げなかった。しかし、幕府が洋式軍学を導入したため、勢力がなくなり、武田は近藤らに不平をいだくようになった。このため、伊東一派に近づいたが、武田の平素の行動を見ぬかれて拒否された。そこで、薩摩藩に接触するようになった。武田に恨みをいだく者が近藤に行状を密告した。慶応2年9月28日、近藤は武田を暗殺する目的で呼び出し、酒宴を開いた。武田は除隊を申し出て了承されたが、近藤に、遅くまでひきとめられた。近藤は帰途の用心にと偽って、斎藤と篠原を同伴させた。篠原は武田とは懇意にしていたが、近藤は「武田は悪謀があるので斎藤に殺させるつもりだ。足下は彼を安心させるために同行させるので、私の交わりは捨てろ」と命じたという。竹田街道(銭取橋)で斎藤は武田を大袈裟に斬った。その後、斎藤は「日頃の広言にも似ずもろい奴だ」と高笑いしたという。

上記は西村兼文『始末記』によるが、現在では武田が暗殺されたのは慶応3年6月22日だというのが通説になっているようだ(尾張藩士の記録「世態誌」に慶応3年6月22日に「元新選組武田某」が竹田街道で新選組によって大袈裟懸けに惨殺されたと記されているため)。ただし、慶応3年6月説だと、御陵衛士の分離後で、しかも、会津藩邸での同志横死事件直後であり、衛士と新選組の関係は険悪になっていた時期である。近藤が斎藤と篠原を酒宴に招き、武田の暗殺を命じるというのはちょっと考えにくい。(ナゾは探求中)

御陵衛士

■御陵衛士拝命に尽力
慶応3年3月、篠原は伊東や同志とともに御陵衛士を拝命し、3月20日、勤王活動にとりくむため新選組から分離した。篠原は衛士中、最年長である。

■「あいらぶきゅう」
子母沢寛の『始末記』によると、篠原の覚帳という遺品があり、そこには「ぐうとないと」「ぎぶみい」「せんきゅう」「あいらぶきゆう」などという英語や「ロケット製造の方」という火薬を研究したものが書かれていたそうである。真偽不明だし、覚帳が実在していても、衛士時代のものか明治以降のものかはわからない。ただ、伊東の建白書にはフルベッキの話を参考にしているところが見られるので、伊東ら衛士が英語にも関心があった可能性はある。(「あいらぶきゆう」が書かれているところは彼らラシイと思う^^)。

■長州藩野村某に依頼されて尾張に出張
同年9月には、長州の野村某(野村靖か?)との約束により、伊東とともに名古屋に出張し、尾張藩重役に面会して、長州寛典論の前尾張藩主徳川慶勝の上洛を要請した。

油小路事件

■「平服で向おう」と主張
慶応3年11月18日、近藤に呼び出された伊東が、帰途、七条油小路で新選組に暗殺され、遺体が囮として油小路に放置された。知らせを受けて騒然となった同志に、「もし一戦になれば多数に無勢である。武装したまま路上に討死すれば、卑怯者と誹謗されるだろう。平服で行くべきだ」と主張し、衛士たち9名は平服で油小路に急行した。

待ち伏せの新選組数十名に襲撃されとなり、藤堂平助・毛内監物・服部三郎兵衛の3名が戦死した(こちら)が、篠原は重囲を斬開き、今出川の桂宮家権太夫尾崎刑部宅に逃げ込んだ。四ツ頃、新選組隊士6〜7名が尾崎宅に押しかけ、篠原の引渡しを求めるが、尾崎の「いない」との返答に引き上げる。暗くなってから今出川の薩摩藩邸に保護を求め、生き残りの同志(三樹・加納・富山)と合流した。(こちら)

■同志の復仇:近藤勇要撃
伊東らが殺害された1ヶ月後の12月18日(祥月命日)、早朝、近藤勇妾宅に潜伏するという沖田総司を内海・佐原太郎とが襲撃した。阿部・内海・佐原は油小路事件時に不在だった人々である。しかし、沖田は前夜のうちに伏見の新選組宿営地に戻った後であった。同日、京都で騎馬の近藤勇をみかけた阿部らは、伏見薩摩藩邸に戻り、居合わせた篠原・加納・富山を加えた6名で近藤を要撃。近藤を狙撃して重傷を負わせるが騎馬のため逃げられてしまった。

赤報隊・戊辰戦争

■赤報隊
慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いでは、同志とともに薩摩藩一番隊として戦った。1月6日、同志と、前侍従綾野小路俊実(新政府参与大原重徳の息子)を奉じて京都を脱した。8日、合流した相楽総三らともに挙兵し、赤報隊を結成(赤報隊二番隊)。新政府からの帰還命令を無視して進軍する相楽の一番隊と袂を分かって帰京した。

■偽官軍の嫌疑で投獄
しかし、帰京した赤報隊は偽官軍事件の嫌疑を受け、篠原は三樹・新井忠雄とともに投獄されてしまった。このとき、理不尽だと激怒した新井が、脱獄するとか警備兵を残らず斬り殺すとかいきまき、篠原・三樹がなだめる一幕もあった。

■「夫に代わってわたしたちに死を」
一方、3人が投獄されて大津の阿州陣屋に移されたのを聞いた妻萩野は、新井の妻とともに彼らの助命に東奔西走した。その苦心に耐えず、思い余った彼女たちは、大津まで出向き、「夫に代わってわたしたちに死をお賜りください」と嘆願し、阿州陣屋に駈け込もうとしたという(「女達の油小路事件」)。

■戊辰戦争
三樹・篠原・新井の嫌疑は晴れ、3月7日に釈放された。しかし、薩摩藩預かりとなり、赤報隊との合流はできなかった。14日には油小路で横死した伊東ら4名の遺体が孝明天皇の御陵のある泉湧寺の塔頭戒光寺に改葬された。大名のような葬儀だったそうだが、篠原が参加したかどうかは不明。赤報隊は徴兵七番隊として、5月に京都を出立したが、篠原らは京都に留まっている。6月15日、篠原は新井とともに新政府軍(会津征討軍越後口派遣軍)の軍曹に任命された。その後、北越を中心に転戦した。

明治時代

■ライフル・ロケット試写、大村益次郎暗殺犯死刑停止事件、奇兵隊脱走兵隠匿事件

明治になって、篠原は久留米藩主の依頼でライフル・ロケットの試射を行い、藩士(100石)としても登用された。その後、弾正台京都支庁少巡察に任命されるが、上司海江田信義(有村俊斎)の大村益次郎暗殺犯死刑執行停止事件に連座して謹慎。復職するも、久留米の奇兵隊脱走兵隠匿事件に謀議の疑いで免職。結局、お構いなしとなったが、退職。

退職後は実業家となった。後年、クリスチャンに改宗。秦林親日記を記し(日記といっても、回顧録。息子の書いたものである可能性もある)、史談会に出席して証言するなど、当時の記録を残した。享年84歳。

関連:「覚書」「衛士(4)篠原秦之進とライフル・ロケットの謎-1」衛士(5)篠原秦之進とライフル・ロケットの謎-2(by ウメさん)」
(02.9.8、04.2.14)

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