■将軍上洛延期運動 【京】文久3年1月16日、上京した越前藩用人中根靱負が、後見職一橋慶喜を訪ね、将軍上洛の延期決定を報告しました。慶喜は、京都の形勢は「以ての外険悪」で延期すれば「人心の折合」がつかなくなるだろうと述べました。 やりとりはこんな感じ↓
また、この日、中根が大目付岡部長常(駿河守)に面会したところ、岡部は京都の情勢について、「上京已前関東にて聞及びし所に相違なし。過激の攘夷論のみにて何とも申べき様なし。橋公にも殊の外心痛せられ事理を尽して論弁せらるれとも一切貫徹せず無ニ無三に鎖港すべしとの議なり」などなど語ったそうです。 参考:『続再夢紀事』一(2004.3.5) 関連:■テーマ別:「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議」「薩摩藩の将軍上洛延期運動」 ■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限」■余話:「慶喜公逆上甚だしく神経過敏となり」 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 【京】文久3年1月16日、鷹司輔熙に関白宣下の内意が下りました。 <ヒロ> 薩摩藩と姻戚関係にあり、公武合体を推進してきた近衛忠煕関白は、尊攘急進派勢力の伸張に鑑み、辞表を提出していました。 参考:『徳川慶喜公伝』2(2004.3.5) ■浪士組 【江】文久3年1月16日)、近藤勇は小島家を訪ね、小島鹿之助から鎖帷子を借用しました。なお、17日には山南敬助・沖田総司が小島家を訪ね、翌18日に出立しています。(『小島家日記』) <ヒロ> 近藤は、これより以前に、7日に出された浪士募集の達文(こちら)を知り、応募することを決めて、借用を申し込んだものだと思われます。 ●近藤ら応募の経緯 参考までに、永倉新八の晩年の談話等をもとにした読み物『新撰組顛末記』によれば、幕府が「尽忠報告の名をかかげて、ひろく義勇の士を募」ることが「愛国の士をもってみずから任じ、居常攘夷論を口にする」永倉の耳に入り、試衛館で近藤、沖田総司、山南敬助、土方歳三、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎等に向って、「公儀においてひろく天下の志士を募り、攘夷の手段をつくすとのことである。もし事実であるならすすんでわれらも一味となり日ごろの鬱憤を晴らそうではござらぬか」ともちかけたことになっています。さらに、近藤・土方・永倉ら7、8名が浪士取扱松平主税助を訪ねると、幕府が尊王攘夷の本旨から募る浪士の一隊は、来春上洛予定の将軍家茂の警護として京都へ向う予定だと説明したそうで、彼らは即座に加盟したそうです。『顛末記』は永倉の記憶違い、記者の想像・誇張、などなど入り混じっており、史料というにはちょっと(「続再夢紀事」などとは同一には並べられないのでご注意を)なのですが、そこにおいても、募集の本旨は尊王攘夷であり、将軍警護はそのための具体的活動という位置づけだということがわかるのではないでしょうか。また、結果的に永倉たちは京都に長期間滞在することになるのですが、彼ら自身、当初は将軍帰府とともに江戸に戻る予定でいたようです(近藤勇書簡)。 ●伊東甲子太郎らのちの御陵衛士は? 伊東らのちの御陵衛士となる人々の多くは関東出身で、この頃には江戸にいましたが、浪士募集に応じたのは藤堂平助だけでした。 尊攘に関心のある浪士にとって、その志を活かす機会が幕府募集の浪士組に参加することに限られていたわけではありませんでした。たとえば、「秦林親日記」によると、この時期(文久3年正月)、篠原秦之進、服部三郎兵衛(服部武雄)・加納鷲尾(加納道之助)、佐野七五三之助は、柴田小源太・元井和一郎・北村吉六・松本某・中野某・太田某・北川某らと横浜における尊攘の機会を待っていたそうです。前年12月、幕府は(表向きには)攘夷を奉勅していました。いよいよ破約攘夷が実行に移されることになれば、その中心となる場は横浜だからでしょう。また、生麦事件の償金交渉の進展いかんによっては横浜はすぐにでも攘夷実行の場となりえます。実際、2月3日から英国艦隊が続々と入港し、同月19日には艦隊の威力を背景に英国が20日以内の返答を要求しています(こちら)。幕府がこれを拒めば、英国と戦争状態となるところです。実際は、老中格小笠原長行が「独断」で償金を支払ったので戦争にはなりませんでしたが、その後、8月に幕府は横浜鎖港を決議し(こちら)、横浜は尊攘実行の場としてますます脚光を浴びることになります。加納らは、元治元年3月の天狗党筑波挙兵の際も、横浜での攘夷を実行するときだと喜び、同志の大村安宅を筑波に派遣したといいますし、横浜での攘夷にこだわりがあったようです)。 横浜で攘夷の機会を待っていたメンバーの一人である加納は文久2年以前に伊東に剣を指導してもらったことがあり、伊東を「師匠同様」にしていたそうです。もし、加納の紹介で、文久3年正月頃には既に伊東と篠原らが知り合っていたとすると、伊東も彼らとともに横浜で攘夷を実行する機会を待っていたのかもしれないと思います。さらに想像を広げれば、藤堂を送り出して、京都の情報を持って帰ってもらおうと思ってたかもしれないとか、清河をうさんくさく思ってたかもしれないとか、いろいろありうると思いますけれど、このへんは小説の範疇になっちゃいますネ。あ、なお、藤堂は近藤道場に出入りはしていたようですけれど、沖田や永倉のように剣術道具を置いてはいなかったようなので、伊東の弟子から近藤の内弟子に鞍替えしたとか、食客になっていたかいうのではないようです。 参考『新選組日誌』上・『新撰組顛末記』・『新選組戦場日記』(2004.3.5) 関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館) |
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