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元治元年 元治2/慶応元年 慶応2年 慶応3年 |
8月 | ? | 藤堂、将軍上洛要請と隊士募集の近藤に先だって東下するという(『新撰組顛末記』) | 8月〜幕閣の京都・諸藩敵視政策 8.2−在京老中阿部、将軍上洛促進に東下。 8.5−四国艦隊、下関を攻撃 8.13−幕府、征長部署決定。 8.14−長州、四国艦隊と講和条約 8.24−幕府、勅命により毛利父子の官位剥奪 8.30−将軍上洛の勅命 |
? | ? | 藤堂、伊東に会って新選組加盟を勧誘。(加納談『史談会速記録』) (元治元年8月下旬〜9月上旬?−藤堂、東下して伊東を新選組に勧誘。) |
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9月 ? |
? | 伊東、近藤と面談。尊王攘夷を議論。(加納談『史談会速記録』、西村兼文「新撰組始末記」) | 9.2−天皇、容保に煎薬下賜。 9.5−天皇、禁門の変の功により剣一口下賜。 9.5頃−近藤・永倉・尾形・武田、江戸へ出立 9.9−公用人野村・公用方広沢、幕閣と面談するが形式的に終わる。 9.11−大目付、野村を呼び出し、叱責。勝、西郷と会見 9.14−幕府において守護職在勤中、毎月一万両・米二千表与えることが決定. 9.17-容保、将軍に上洛要請の直書 9.26−容保、公用人小森を尾張藩に遣わし、上洛要請 |
? | 伊東、同志に相談の上、上洛を決意。(加納談『史談会速記録』)。 元治元年9月頃−伊東、近藤に会って新選組加盟について話合う |
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10月 | ? | 加納、神奈川奉行所に暇願いを出す。 | 10.1−在京老中阿部、関白二条に詰問される 10.2−阿部、東下 10.7−公用人手代木、征長諸藩重臣とともに尾張藩士に出征緩慢を詰問。 10.16−天皇、容保に京都守護を願う御沙汰 10.22−大阪城で征長の軍議 10.25−第一次征長戦、天皇、容保に禁門の変以降の功をねぎらい短刀下賜。 10.27−近藤、帰京 10.29−容保、将軍進発要請のため公用人小森を東下。 |
? | 三樹(三木荒二郎)、志筑藩より隠居料2俵授かる。(「分限帳」)←市居浩一氏提供資料 | ||
12 | 近藤、隊士募集での新規入隊者(一の印)と入隊希望者(ニの印)を会津藩に通知。ニの印は伊東・三木・篠原・内海・柴田・加納・大村・浜本・中西・佐野。(『会津藩庁記録』(東京大学史料編纂所蔵)。*伊東らは自費で上洛と決し、上洛前に会津藩公用人野村左兵衛に挨拶(『史談会速記録』) | ||
15 | 近藤・永倉ら、新入隊士14名と加入希望の伊東・三木・篠原・内海・加納・大村・中西・元井ら8名、江戸を出発(井上家文書)。近藤、伊東ら28名江戸出発。ただし、伊東らは別途江戸を出る。大森の旅宿「駿河屋」から発つ。 | ||
16 | 戸塚に宿泊(『加納家系譜』) | ||
17 | 鶴岡八幡宮に参詣。藤沢宿で近藤らと合流。(『系譜』『履歴書』) | ||
? | 大村安武、横浜での攘夷が露見し、幕府に捕まる(「秦林親日記」) | ||
27 | 近藤・伊東ら一行、京都に着く。伊東らはしばらく近藤妾宅に遊食する(『殉難録稿』)*伊東らは遅れて入京した可能性も | ||
11月 | ? | 新選組土方、征長軍念頭の「行軍録」作成。伊東らの名前も。 伊東の上洛以来、新選組副長の山南と意気投合する(『新撰組顛末記』) |
11.2−西郷隆盛(総督参謀)の長州藩(吉川経幹)調停 11.4−征長総督使者(薩摩の大島、吉井ら)岩国出張 11.11−長州三家老ら切腹 11.16−新選組近藤、大阪問屋筋に15万両の献金を申し付ける 11.18−天狗党追討に会津藩出動の勅命、慶勝、長州藩謝罪を上奏 11.27−問屋筋、献金の日延べを要請 |
12月 | 20 | 伊東らの同志大村安宅、横浜で切腹 (「秦林親日記」) | 12.3−天狗党追討軍京を出立。 12.15−老中松前・若年寄立花上洛(慶喜江戸召喚のため) 12.18−幕府、会津藩に金7000両を賞賜。 12.22−天狗党加賀藩に降伏。 12.26−高杉晋作挙兵 12.27−慶喜帰京。慶勝、征長軍撤兵の指令 12月中:新選組、大阪豪商から銀6600貫金策。 |
1月 | 8 | ぜんざい屋事件。谷の弟子として潜伏中の阿部十郎、浪士捕縛に協力。 | 1.4(1.31)−慶喜参内。天狗党鎮撫を賞される。将軍上洛の勅書。 1.11(2.6)-新選組、天誅予告状を張り出す 1.15(2.10)-幕府、長州処分の江戸での決定&将軍進発延期を布令。慶勝、寛典と諸侯会議の開催を進言。五卿、筑前藩へ 1.18(2.13)-田沼、入京 1.19(2.14)-慶喜、田沼への引渡しを奏上 1.26(2.21)-新選組、六角源氏捕縛 1.25(2.20)-幕府、参勤交替の復活を布告 1.28(2.22)-慶勝、慶喜に長州処分のため諸侯召集を求める。容保、慶喜に招集猶予を求める。 1.30(2.25)−容保、東下願いを朝廷に提出。加賀藩、田沼に天狗党引渡し。 |
? | ? | ||
2月 | 23 | 山南敬介の切腹。伊東は永倉とともに脱走を勧めるが謝絶されるとも(『新撰組顛末記』)。 元治2年2月22日-新選組副長山南、一説に脱走。 元治2年2月23日-新選組副長山南切腹。 |
2.1(2.26)-将軍上洛を促すための容保の東下願いが許可される 2.4(3.1)-容保東下をやめるべきとの内旨。 -天狗党武田ら斬殺が始まる 2.5(3.2)-老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上洛(慶喜・容保の江戸ひきあげ&幕兵による京都守護と朝廷牽制) 2.13(3.12)−容保に御符を下賜。幕府、総督・守護職の月1万両賜金を停止。 2.19(3.16)-朝廷、幕兵の御所内外の徘徊を禁止 2.22(3.19)-老中、朝命で参内。慶喜召還を叱責。将軍上洛の勅書。 2.23(3.20)-五卿、大宰府へ。容保の東下停止の勅命。 2.24(3.21)-阿部、帰府。本庄、下坂 2.28(3.25)-西本願寺、新選組に寺の使用を許す |
? | ? | 伊東、山南の弔歌を詠む(「残し置く言の葉草」)。→<伊東の事件簿> | |
3 | 下 旬 |
伊東(役職は目付け)、土方・斎藤(目付け)とともに東下→<伊東の事件簿> | 3.1(3.26)-容保、病につき黒谷に本陣移転。土方、屯所西本願寺移転を知らせる書簡。 3.26(4.21)−祇園で火事 3.29(4.24)-老中、会藩への疑問氷解 |
4 | 5 | 土方・伊東・斉藤、隊士募集の東下・江戸着。 | 4.2(4.26)−容保、将軍上洛要請のため公用人外島を東下させる。 4.6(4.30)−井深帰京。老中の反省を伝える 4.8(5.2) 容保病状回復・参内。井深を東下させ、将軍上洛を促す。 4.18(5.12)−征長宣戦の令。 4.22(5.16)−公用人外島帰京。老中の返答。 4.27(5.21)−大阪で新選組の悪評 4.28(5.22)−朝議で警衛のため諸藩召集説起こるが一会桑の反対でやむ。 4.30(5.24)−越前春嶽征長反対の建白。 |
27 | 伊東・藤堂・斎藤・土方、新入隊士52名と江戸出発 | ||
5 | 9 | 上記一行、草津宿に宿泊(草津宿大福張) | 5.6(5.30)−幕府目付由比図書・会津藩公用人外島、江戸老中と将軍上洛について面談。入朝問題に容保の尽力を乞われる。 5.16(6.9)−会津藩への手当て支給開始、将軍征長に江戸進発 5.18(6.11)−桑名候、老中同様に御用向き取り扱うよう幕命 5.25(6.18)−新選組、藤井藍田捕縛 5.28(6.21)−容保下坂 |
10 | *京都到着? | ||
11 | 篠原泰之進、伊東らに合流(「秦林親日記」) | ||
閏 5月 |
14 | 佐野ら膳所に出張。膳所事件の河瀬太宰宅を捜索中に妻・幸が自刃をはかる。(「新撰組始末記(壬生浪士始末記)」) | 閏5.16−尾張徳川慶勝、将軍に先発 閏5.22−家茂、入京参内。一会桑に頼るよう、長州処分を清算するようにとの勅愉。また戸田越前守、戸田大和守に優賞の内意 閏5.23−防長の評議。会、防長評議に参加を求められる。容保・定敬、将軍に慰労される。将軍、慶喜を忌む発言があり、容保これをいさめる。 閏5.24−将軍二条城出発 閏5.25−大坂城へ 閏5.28−容保下坂 |
? | ? | 伊東、上記膳所事件に関連して新選組に捕縛された志士・井上謙三を放免させるという(「新撰組始末記(壬生浪士始末記)」)。→<伊東の事件簿> | |
? | ? | 中西登、小路平三郎とともに、脱走隊士石津茂一郎を捕縛。 | 6.15−容保帰京 6.17−一会桑、老中阿部、参内して長州支藩召喚を奏請・勅許される。 6.23−幕府、毛利淡路・吉川監物に上坂命。 6.29−容保下坂 |
6月 | 16 | 大阪出張中の三木(目付け)、天満宮総代に会ってその丁重さに感心される。(「滋岡家目録」『高台寺党の人びと』) | |
7月 | 18 | 脱走隊士・植田末次らが名古屋で朝名を騙って金策するとの通報があり、伊東・東海道探索。(島田・中仙道)→<伊東の事件簿> | |
? | 伊東・富山・篠原・茨木・久米部、大和に浪士捕縛に出張→<伊東の事件簿> | ||
? | ? | 新選組慶応元年夏の編成。一説に伊東=参謀&筆頭文学師範、三木=九番隊組長、篠原=監察&筆頭柔術師範、新井=監察&剣術師範、服部=監察、毛内=文学師範、清原=筆頭砲術師範、阿部=砲術師範(「新撰組始末記(壬生浪士始末記)」) | 8.1−容保帰京。加俸の命。 8.4−薩摩藩大久保、征長は会津のアイデア等会津批判 8.8−新選組武田観流斎、薩摩藩士を補殺 8.18−幕府、広島藩に再度召喚を命ず |
9月 | ? | 新選組、第二次『行軍録』作成。伊東らの名も。 | 9.1−京都下立売に守護職邸完成。 9.4−小笠原長行、老中格に任命 9.15−将軍上京 9.16−4国艦隊、兵庫沖来泊 9.21−将軍参内。朝議で防長の幕府委任(将軍進発) 9.22−長州再征の勅許 9.23−幕府、四国代表と会談 9.25−大阪幕府(老中阿部正外・松前崇弘)、兵庫開港を独断決定 9.26−慶喜、大阪城到着。阿部・松永と激論・家茂落涙。 9.27−春嶽、征長の不可を論ずる 9.28−公用方広沢帰京 9.29−慶喜、容保・定敬と関白に面談して下坂の暇を乞うが、容保には許可下りず。朝議により、阿部・松前の改易・謹慎命令 |
10月 | 22 | 伊東、武田観柳斎・沖田総司とともに肥後藩京都留守居役上田久兵衛訪問。(水滸伝の盧俊義について談話したもよう)(「上田久兵衛の日記」『幕末京都の政局と朝廷』) | 10.1−幕府、両老中罷免&謹慎令。10.2−条約勅許&兵庫開港の秦請と将軍職辞表を提出(関白二条斉敬)、容保、伏見に尾張藩徳川茂徳に入朝・奏請の理由を尋ねる。 10.2−老中小笠原、容保に開港勅許・将軍職譲位の奏請内容を明かす。 10.3−家茂、大阪を発って陸路江戸へ。 10.4−家茂、伏見到着。慶喜の説得。二条城へ。 10.5−慶喜、条約勅許を獲得。 10.7−岩倉、一会批判 10.10−小笠原、老中に再任。 10.12−会津、外島を通して薩との関係修復はかるも大久保拒否 10.13−西郷、幕府の因循を批判 10.22−老中に板倉勝静再任 10.25−西郷・小松、率兵入京 |
10月 ? |
? | 伊東・篠原、長州奇兵隊元総督赤根武人、及び久留米志士渕上郁太郎の赦免に尽力。(時期不明だが、伊東は長州藩遊撃隊来島又兵衛家臣石津茂一郎の赦免にも尽力という)「壬」「秦」 | |
11月 | 2 | 渕上、赤根、「貴公等は報国の士である、天下非常の際だから、粉骨砕身公武の融和と長州問題の善処について周旋するように」と釈放される。目付外川鉾三郎の旅宿に案内され、戸川と会談。夜、戸川と下坂。(渕上書簡) | 11.3−将軍下坂 11.4(12.21)−幕府、長州再征の諸藩部署決定。長州訊問使京都出立。膳所十一士処分。 11.20(1.6)−訊問使、国泰寺で長州使者宍戸備後介を訊問 11.25−長州副使木梨彦右衛門広島到着 11.30−永井、再び訊問 |
4 | 近藤・伊東・新井・服部・武田・山崎・吉村・芦屋・尾形、長州訊問使・大目付永井尚志に随行して京都出立 →<伊東の事件簿> | ||
5 | 大目付永井、目付戸川、目付松野孫八らと大阪出立。(渕上・赤根も大坂出立) | ||
16 | 広島到着(渕上・赤根も)。 | ||
20 | 近藤らの入国、拒絶される | ||
22 | (*渕上・赤根、長州へ潜入。) | ||
12月 | 2 | (*渕上、永井に復命。「今後は自由にしてよい」といわれる。) | 12.16(2.1)−訊問使、広島出立。 12.17(2.2)−老中小笠原、越前藩中根に薩摩の上京は対会津と不和について語る。千種、岩倉宛に中川宮の勢力を嘆く。 |
14 | 近藤・伊東・武田、岩国をめざして広島出立。 | ||
15 | 岩国で長州入を交渉 | ||
16 | 断念して岩国出立 | ||
17 | 広島出立 | ||
22 | 京都帰着。会津藩に報告。近藤(伊東)、長州寛典を説く。 |
1月 | 24 | 近藤、会津候から広島出張を下命される | 1.7(2.23)−老中板倉・小笠原、慶喜・容保と長州処分を評議に上京 1月中旬−容保、長州処分をめぐって老中と慶喜の間を周旋 1.22(3.9)−薩長同盟。長州10万石削封の処分案の勅許。 1.23(3.10)-寺田屋襲撃 1.26(3.13)-小笠原全権&大目付永井・室賀、目付牧野随行命令 |
27 | 伊東・篠原、近藤・尾形とともに、陸路広島へ<伊東の事件簿> | ||
2月 | 3 | 伊東ら広島入り | 2.4(3.20)-小笠原大阪出発 2.7(3.23)-小笠原広島到着。 2.8(3.24)-永井出発 2.11(3.27)-目付到着 2.12(3.28)-小笠原、支藩毛利左京・毛利讃岐・吉川監物召命 |
11 | 伊東・篠原、小笠原と面談し、尊王攘夷を議論。また、諸藩周旋方とも会議。長州寛典を立論。 | ||
12 | 新選組河合喜三郎、隊費不積算を理由に斬死。 | ||
3月 | 7 | 伊東・篠原、諸藩士と面談。 | |
12 | 近藤、京都に帰着 | ||
15 | 新選組隊士・佐藤安次郎、広島へ | ||
18 | 伊東・篠原、広島港出立 | ||
19 | 伊東ら備後に停泊 | ||
22 | 伊東ら四国多度津に停泊 | ||
24 | 伊東ら大阪港到着 | ||
27 | 伊東ら京都到着 | ||
4月 | 1 | 谷三十郎死亡 | 4.2(5.16)-小笠原、藩主・世子らを21日限りで召命 4.6(5.20)−一会桑参内し、長州厳重処分を奏請・勅許を得る。 4.14(5.28)-薩摩藩、出兵拒否の表明書を老中板倉へ 4.18(6.1)−新選組、伊勢の豪商から借金。会津が謝罪。 4.23(6.6)-長州藩宍戸備後助、広島到着 |
5月 | - | 不明 | 5.1(6.13)-小笠原、処分を通告 5.7(6.19)−一桑参内、長州再征の上奏。勅許。容保、病につき長州再征の上奏に加わらず |
6月 | 15 | 内海・松本喜二郎・三井丑之助・近藤芳助が隊士・柴田彦三郎の脱走を、追う。 | 6.7(7.18)-第2次征長戦開始(総督・紀州の徳川茂承、副総督・老中本庄) |
19 | 柴田を捕らえた出石藩役人が内海らに引き渡す | ||
23 | 柴田に切腹が言い渡される | ||
9月 | 12 | 三条制札事件。新井(目付け)、橋本(七番隊物見)、服部(目付け)、内海(七番隊)、小林啓之助、出動。 | 9.2−慶喜、老中に8か条の幕政改革を示す 9.4−二条関白、中川宮国事扶助の辞意表明と参朝停止 9.7?−大名24名の上洛の朝命 |
19 | 土佐藩、祇園に近藤・土方・伊東らを招き、三条制札事件の手打ち | ||
26 | (伊東・篠原、近藤・土方と分離について激論。:疑問あり) | ||
27 | (篠原、近藤・土方と激論。近藤ら了承。しかし異論がある(疑問あり) | ||
12月 | 20 | 会津藩から三条制札の恩賞が新選組へ。新井・内海(20両)、橋本(15両)、服部(千疋) | 12.1−容保、余九麿を世子として養子に 12.5−慶喜に将軍宣下 12.15−孝明天皇発病 12.25−新選組、西郷と間違えて従者を暗殺とも |
27 | 孝明天皇没 |
1月 | 1 | 伊東・永倉・斎藤ら隊規違反で島原に流連?(疑問あり) |
1.2-泉湧寺に御陵を設営する布達 1.12−中川宮、辞表再提出 1.15−征長軍解兵決議。慶喜、朝廷への征長解兵奏請使者として容保・定敬を任命 1.17−容保、評議の上、断る。 1.29−孝明天皇御陵へ埋葬 |
4 | 近藤の使いにともなわれて帰営。伊東、謹慎という。 | ||
18 | 伊東・新井・三木ら島原木津屋で酒宴の後、伏見寺田屋へ。寺田某と合流その後、九州に向かうため、舟で淀川を下る。大宰府等の尊王派に新選組分離の理解を求めるためである。(以下、特に断りのない限り「九州行道中記」) | ||
19 | 朝、大阪の京屋へ。三木と別れて伊東・新井・寺田、兵庫へ。湊川に寄って兵庫泊。永井玄蕃(=永井尚志)に出会って話す。 | ||
22 | 三人(伊東・新井・寺田)、佐賀関港到着。小船で鶴崎に向かうが引き潮。途中から陸路鶴崎へ。夜、永井が鶴崎に。 | ||
23 | 三人(伊東・新井・寺田)、鶴崎から肥後路に向かう(永井は日田)。宇津原で昼食。今市に宿泊。黒峠という難所を越える。 | ||
27 | 伊東(・新井・寺田)、昼に南関。伊東、慶応2年長州征伐における小倉・長州の闘いで肥後に避難した老少婦人の窮状を見て落涙。三池の尊王家清水(塚本源吾:渕上郁太郎の友人)宅に宿泊。 | ||
28 | 阿部、下川、渕上(郁太郎)が来会。 *阿部=渕上潜伏先の三池加納村の阿部後哲、下川=渕上の妻政子の弟、久留米勤王党の下川根三郎と推測される。 |
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29 | 伊東、清水と大宰府へ。新井は肥後人応接、寺田は西肥後周旋の予定。 | ||
2 | 2 | 伊東、久留米を経て大宰府到着。天神参詣。梅林をみて和歌を2首詠む。真木外記・水野渓雲斉等と面会。薩摩の吉田清左衛門宅に宿泊。 | |
3 | 清水、真木に面会。永井(尚志)の話をしたところ、大いに嫌疑を受けて恐怖して帰る。伊東、真木を再度訪問し、実を吐露するが、謀殺の気配を感じる。伊東、長州から来た使節とも応接。 | ||
4 | 伊東、真木・水野らと再度面会。新選組とは異論があって分離すると説き、嫌疑を解く。再会を約して分かれる。長州から来た使節とも応接。 | ||
5 | 伊東、大宰府出立。 | ||
6 | 伊東、三池でニ子(新井・寺田?)と合流。渕上が(幕府の間者ではないかとの)嫌疑を受けて肥後での周旋成立せず。 | ||
7 | 伊東、周旋に尽力するが成らず。 | ||
8 | 同上。 | ||
9 | 伊東・(新井・寺田)、夜に肥後領ついたてに行く。間道が山道にあり、ひどく難渋する。伊東、寺田の言行不一致に愛想をつかして和歌を2首詠む。 *17日にニ子(2名)が伊東と分かれて出立、という記述から、新井・寺田も伊東に同行して日田に向ったと推測。 |
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10 | 伊東・(新井・寺田)、農家泊。 | ||
11 | 同上。 | 2.11−容保、守護職辞任を書面提出 | |
12 | 同上。伊東、思うことあって和歌を3首詠む。 | ||
13 | 伊東・(新井・寺田)、添田に着く。小倉の人と面談。 | ||
15 | 伊東、英彦山に登って一首詠む。 | ||
16 | 伊東・(新井・寺田)、日田で大いに嫌疑を受ける。伊東、悔しい心情を和歌に詠む。 | 2.17−家老田中土佐、老中を訪問して免職を請う | |
17 | ●二子(新井・寺田)、出立。伊東は日田郡代窪田治朗に面会。嫌疑を受ける。 ●新井、大宰府の真木に約束の護送解兵書を持参。7ツ半に7ツ半に出発して崎陽(長崎)に向う予定(真木外記の日記「日知録」。ただし、20日の日記に、17日のこととして書かれている。市居氏は毎日、日記をつけている土方の記録の方が正確であると判断されている) |
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18 | 伊東、嫌疑を受けて日田に足止め。 (*渕上、柳川藩山中で何者かに暗殺される)。 |
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19 | 伊東、同上。 | ||
20 | ●伊東、同上。代官内海多次郎が帰り、嫌疑が氷解して出立できることに。 ●新井、大宰府の水野渓雲斎を再訪。水野に二通の書簡を渡し、用はないかと尋ねるが、「差当り何もないが京阪のことはよろしく頼む」と答えると、すぐに帰った(土方久元の日記「回天実記」) |
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21 | 伊東、日田を出立。 | ||
22 | 伊東、佐賀着。新井に合流。友との再会に感激して一首詠む。 | ||
23 | 伊東・新井塚崎泊。温泉に入る。新井、病が篤い。 | 2.23−中川宮再出仕 | |
24 | 伊東(・新井)、大村宿。 | 2.24−倉沢、外島、老中訪問。辞職東帰を請う | |
25 | 伊東(・新井)、崎陽(長崎) | ||
26 | 伊東(・新井?)、鎮台能瀬大隈守訪問。(新井?)、医師の診察を受ける。 | ||
29 | 伊東(・新井?)大隈守より300両受け取る | ||
3月 | 3 | 新井、両鎮台を訪問。 | |
4 | 伊東(・新井)、京へ向けて出立。昼夜急ぐ。 |
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<主な参考文献> 『史談会速記録』・『回天実記』・『幕末京都の政局と朝廷』 『高台寺党の人びと』・『共同研究新選組』・『幕末史研究』・・『新選組覚書』 『新選組史料集コンパクト版』・『新選組日誌上』(新人物往来社)収録の上記史料 参考資料欄にサイトのタイトルとURLを明記することなく、他HP・同人誌・商業誌(創作を含む)・ レポート・論文等の参考に資すること、及び無断転載・複写・引用はお断りします。 なお、やおい(エロ)作品への悪用は絶対にしないでくださいm(__)m。 |
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