1月の「今日」 幕末日誌文久2  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久2年11月12日(1863.1.1)
【京】薩摩藩と守護職:島津久光を守護職にとの朝命
【江】松平春嶽、一橋慶喜に老中板倉勝静の進退を相談/
【江】薩藩高崎猪太郎、山内容堂に長州藩士の横浜襲撃計画を内報/
【江】清河八郎、春嶽に上書。

■久光の守護職就任運動
【京】文久2年11月12日、薩摩藩国父島津久光を京都守護職にとの朝命が下りました。

「松平肥後守儀、京都守護職申付けられ、御警衛筋も行届き、御満足思召され候、しかるところ、一藩奉職にては、人心居合い(おりあい)もいかがこれあるべきや、御懸念思召され候、此れにより、島津三郎儀、今般公武御一和の基本を周旋いたし、皇国の為に大いに忠誠候者にて、此末、公武の御為、別て然るべく思召され候、かつ同人儀、家督にこれ無く候えば、京都守護も専一に相調え候儀と思召され候につき、右、別段の叡慮をもって、断然守護職仰せ出されたく、大樹家においても猶また叡慮貫徹候よう、肥後守申し断じ相勤め候よう申し渡されたく御沙汰候こと、
別紙の通り仰せ出され候については、島津三郎儀、早々上京仰せ下され候間、父子一時發途に相成り候ては、難渋にもこれあるべき候間、修理太夫出府の儀、暫く猶予これあり候よう、遊ばされたく、思し召し候こと」

<ヒロ>
『徳川慶喜公伝』によれば、勅使として東下中の尊攘急進派の三条実美・姉小路公知の不在に乗じて、薩摩藩の藤井良節が公武合体派の関白近衛忠煕・青蓮院宮に運動した結果だそうです。島津久光が勅使大原重徳と東下して、京都を不在にしている間、尊攘急進派が巻き返し、情勢を一転させたことの逆をやろうというわけですネ。

(それにしても、藤井良節って、勉強不足の管理人には、公武合体派なのか反幕的な尊攘激派なのかよくわからないナゾの人物です)。

なお、『京都守護職始末』には、文久2年閏8月頃の事情として、「さきに勅使大原重徳卿が西に帰るや、島津三郎もそれに従って西上し、その途中、武州の生麦駅で、英国人が儀従を犯したかどでこれを斬首したが(世にこれを生麦の変とよぶ)、入京するに及んで、諸公卿はその疎暴を論難するどころでなく、かえって勇敢たのむに足るとなし、殊に先に伏見において浮浪の徒の騒擾をしずめ、今また、勅使にしたがって攘夷督促の綸命をくだし、幕府をしてこれを奉戴させた、その功大なりというわけで、長く彼を輦下にとどめて守護の任にあたらせようとした」とあります。しかし、これは、長州・土佐の反対で実現しなかったとも記されています。久光は、同月23日に退京しています。久光が京都にいる間、容保が新設の守護職を拝任したことが京都に伝わっており、 幕府が武力制圧を企んでいるのではないかと不安をもった朝廷は、守護職の職掌について幕府に問い合わせています(こちら)。この時期、『京都守護職始末』にあるように、久光を京都の守護にあたらせようという動きが朝廷にあったとしたら、尊攘急進派だけでなく、幕府/会津藩を掣肘する存在として期待されていたのかも・・・。

●会津藩の反応
当然ながら(?)、この人事に対して、会津藩は猛反発していきます(陪臣の久光と容保を同等に扱われることにもプライドを傷つけられた模様)。会津側資料では、容保が藩士を諭したことになっていますが(たとえば、『七年史』では、容保は、いやしくも京都と関東とに利益があるなら、島津久光に異存はない。官位をもたない者でもよいだろう。わたしはただ、共に協力して公武一和を計るのみである、と言ったとされる)、越前藩資料(『続再夢紀事』)では、容保も猛反対したことになっています。この一件は、紆余曲折を経て、久光が朝命を辞退して決着がつくのですが、薩摩藩が守護職になっていれば幕末政治はかなり違ったものになったのではと思います。また、管理人は幕末を読み解く鍵の一つは会薩関係の変化だと思っているのですが、このときが、何度も何度も関係がねじれていく両者が深く関わった最初となります。薩摩藩の守護職任命運動は「今日」がひと段落ついたら、「守護職事件簿」の方に整理する予定ですので、UPしたときには、そちらも合わせてお読みいただけると嬉しいです。

参考:『続再夢紀事』一、『京都守護職始末』、『七年史』(2004.1.1)
関連: ■テーマ別「公武合体派勢力の後退と島津久光の退京」「久光の守護職就任(会津VS薩摩)」薩摩藩日誌文久2年

■老中板倉暗殺計画
【江】文久2年11月12日朝、政事総裁職松平春嶽は、登城前に将軍後見職一橋慶喜(登城停止中)を訪ね、暗殺計画の噂される老中板倉勝静の進退を相談しました。慶喜は、「(板倉は)方今欠くべからざる人物」なので尚熟考し、登城の上協議しようと述べたそうです。

<ヒロ>
板倉は、幕政改革を迫る第一の勅使大原重徳が東下した際、慶喜登用の朝命に最後まで反対し、その後の慶喜・春嶽の主導する幕政改革にも消極的だった、いわば「抵抗勢力」なのですが、いつのまに慶喜にとって「欠くべからざる人物」になったんでしょうか?きっと、見落としていることがあるんでしょうけれど、ナゾはつきません〜。(単に慶喜の変わり身が早いだけだったりして・・?!)。

参考:『続再夢紀事』一(2004.1.1)
関連:◆11月11日:薩摩藩高崎猪太郎、老中板倉暗殺計画を内報

■長州藩士の横浜襲撃計画
【江】文久2年11月12日夜、薩摩藩高崎猪太郎(高崎五六)は、前土佐藩主山内容堂に長州藩士の横浜居留地襲撃計画(あるいは某外国公使を武州金沢遊覧の途中に要撃)を内報しました

***
同日夜五ツ(20時)過ぎ、松本容堂は密かに越前藩邸を訪問し、<さきほど薩摩藩高崎猪太郎が来て、長州の高杉晋作・日下(久坂)玄瑞を初めとする11人が近日中に横浜を襲撃して外国人を殺害する計画があるので説得を試みてくれという。そのような挙動に及んでは容易ならざる国難を引き起こすので、明朝彼らを呼び寄せて説得する積りだが、承服するかどうか測れない。万一承服せねば内報するが、予め横浜の警備に着手する方がよいだろう>と述べたそうです。

容堂は春嶽に報せて警備強化を促すと同時に家臣の小南五郎右衛門を長州藩世子毛利定広に急使として派遣して、計画阻止を訴えました。その場に居合わせた浦靱負の日記によれば、小南は凡そ以下のことを告げたようです。

大和弥八郎・長嶺内蔵太・志道聞多(のち井上馨)久坂玄瑞・寺島忠三郎・有吉熊次郎・・高杉晋作・白井小助・赤根幹之丞(赤根武人)・品川弥次郎・山尾要蔵の面々が密会し、神奈川まで出掛け、明14日横浜の異人館へ討ち入り、暴発するとのことです。幣藩(=土佐藩)の内にも同志一両人)がおり、実は彼らから内報がありました。折角の(攘夷奉勅の)御周旋中、勅使も下向され、十中八、九ほどは調いつつあるところ、このようなことがあっては、大いにその妨げともなり、尊藩の首尾にも拘るだろうと、容堂様は深くご懸念になっています。御自身が鎮静のためお出ましになりたいところですが、御用で登城せねばならないので、この件を長門守さまへお知らせし、鎮静の処置をとられるよう申上げるようお命じになりました>

定広は<周旋掛・その他の者を差し向ければ争論となり、伏見の趣(=寺田屋事件)になり、無益に死亡者が出ることにもなろうから、自らが鎮静に出向きたい>と答え、馬を飛ばして大森へ向いました。すでに13日未明のことになります

『維新土佐勤王史』によれば:
計画の発案者は高杉晋作で、幕議は攘夷奉勅に決まったものの、将軍の病(麻疹)のため、勅使入城の期日がなかなか定まらないため、横浜襲撃あるいは公使殺害をもって、幕府に攘夷の戦端を開かせようと企てたのだそうです。久坂は同意したものの、計画は極々内密し、土佐勤王党の同志(別勅使に随行して在府)の中でも広瀬健太ら2名に明かしただけだったそうです。久坂がさらに武市半平太に謀ろうとしたところ、高杉は<武市は正論家なので必ず反対するだろう>と止めたそうですが、久坂は<自分は最初から武市と国事を共にしてきた。彼が同意するしないに関わらず、之を告げて永訣したい>と述べ、13日(未明?)、勅使館に武市を訪れました。高杉の案じた通り、武市は幕府に攘夷を奉勅させ、国を挙げて正々堂々と攘夷を行うべきだとの意見だったそうです。久坂は敢て反論はせずに別れたそうですが、その後、新橋の朝陽亭で高杉に計画の中止を求めて激論になったそうです。『維新土佐勤王史』では「瑞山(武市)の言亦久坂の心を動すに足れるものあるを知るに足る」とコメントしています。

さて、計画を知った武市はこれを阻止しようと三条実美・姉小路公知両勅使に内報しました。勅使は連署した久坂玄瑞宛て書簡を桜庭次郎(村井修理)にもたせて諫止させました。日付はすでに13日となっていました。武市は次に鍛冶橋の土佐藩邸に向かい、小南を通して容堂に計画を内報し、容堂の尽力を乞いました。驚いた容堂は小南を定広に遣わしたそうです・・・。(『維新土佐勤王史』は武市を英雄視しているので、すべてが武市の行為の結果のように描写されているのはいたしかたないところでしょうか)

<ヒロ>
容堂に計画を告げたのは薩摩藩の高崎猪太郎が最初だったようですが、その後、土佐藩士からも内報があったようです(あるいは順序が逆だったのでしょうか?)。長州藩向けの口上では猪太郎からの内報は隠されているようです。薩長の関係悪化を防ぎたいという配慮からなのでしょうか?『防長回天史』をGETしたら、この一件について長州側から追加してみたいです。

参考:『維新土佐勤王史』、『木戸孝允』(中公新書)、『山内容堂』(吉川弘文館)(2004.1.1)

■浪士組
【江】文久2年11月12日(1863.1.1)、清河八郎は春嶽あてに上書を提出しました

時間ぎれです。いずれ・・・。

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