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文久2年11月11日(1862.12.31)
【江】薩摩藩高崎猪太郎、老中板倉勝静暗殺計画を内報

■慶喜
【江】文久2年11月11日、後見職一橋慶喜が中納言に任じられました。
参考『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』2(2003.12.31)

老中板倉暗殺計画
【江】文久2年11月11日)朝、登城した総裁職松平春嶽に、幕政参与の前土佐藩主山内容堂が、薩摩藩高崎猪太郎(高崎五六)から内報のあった在府「壮士等」の老中板倉勝静暗殺を計画を知らせました

春嶽は竹本隼人正を板倉に派遣して、明日の登城は控えるよう申し入れると同時に、病と称して登城停止中の慶喜(こちら)には大目付岡部長常を慶喜に派遣して暗殺計画を報せました。

この日の夕方、越前藩邸を訪ねた猪太郎の話によれば、「壮士等」板倉暗殺の理由は以下の通り。
  1. 慶喜がいまだに容堂・春嶽の攘夷奉勅の建議を容れないのは「畢竟板倉閣老愚説を立て橋公を惑わさるる故」である。
  2. 全体板倉には皇室を尊ぶつもりがない。(夏に勅使大原重徳東下の際も、板倉・脇坂両老中は慶喜の後見職登用の朝命を固く拒んだことがあった。このとき、三名の薩摩藩士が三の間に控え、奉承しなければ直に飛び出して「一撃の下に両閣老を弊すべし」と言っており、大原が「(強いて拒絶すれば)禍の害忽ち座間に発すべし」と警告したので、この一言に驚き、初めて奉承を承知したことからも明らかである)⇒こちら
  3. 板倉の人となりがこのようであっては、たとえ、今回は一旦勅旨を奉じても、それを後々まで撤回しないとは信じ難い。故に「断然殺害して天下の害物を除き、あわせて因循家の眼を覚まさせるべし」。
<ヒロ>
開国論を主唱する慶喜が、開国説を幕議に持ち出す前に相談していたのが首席老中板倉勝静と側用取次大久保忠寛(大久保一翁)でした(こちら)。このうち、忠寛は、勅使到着後に「天誅」との風聞(こちら)があったことに加え、幕府内部で忌避されていたことがあり、すでに講武所奉行への更迭されていました(こちら)。これで気の済んだ「壮士等」のターゲットが板倉に向けられたというところでしょうか。

「壮士等」とは誰でしょうか。『徳川慶喜公伝』では、長州・土佐両藩などに唆されたのだろうかと推測し、猪太郎の密告を「薩長不和の結果なるべし」とコメントしていますが。

参考『続再夢紀事』一、『徳川慶喜公伝』2(2003.12.31)
関連:■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」■幕末日誌文久2 ■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏

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