1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ

前へ   次へ

文久2年11月27日(1863.1.16)
【江】攘夷別勅使三条実美・副使姉小路公知江戸城入城
攘夷の勅諚と親兵設置の沙汰書を授ける

攘夷別勅使東下
【江】文久2年11月27日、別勅使の三条実美・姉小路公知が江戸城に入城し、将軍家茂に破約攘夷督促の勅書と親兵設置の沙汰書を授けました

破約攘夷督促:攘夷は「千年来の叡慮」であり、方今に至って今更の「御変動」はない。「柳営」(=幕府)が「追々変革新政」を施行し、叡慮が尊奉され、叡感斜めならずである。然るに「攘夷一定」がなくては「人心一致」にも至り難く、かつ「国乱」を招くのではないかと叡慮を悩まされている。「柳営」においては、「弥(いよいよ)攘夷決定有之」、速かに諸大名へ布告あるようにと思召される。尤も策略の次第は武将の職掌であるから、早速衆議を尽し、至当の公論を決定し、「醜夷拒絶」の期限を奏聞せよとの御沙汰である。
親兵設置:今般、攘夷の儀を決定し、天下へ布告にもなれば、「外夷」がいつ海岸を「劫掠」し、畿内に闖入するやも知れず、禁闕の御守衛を厳重に命じたく思召される。ところが、「海国」(=沿海諸藩)は「防禦」を、内陸の諸藩は(沿海藩の)救援を手当てせねばならぬ。「辺鄙」より畿内に警衛兵を差出しては自然と行き届かぬ筋も出来し、かつ自国の兵備が手薄になって国力が疲弊するだろう。そこで、「京師守護」に「御親兵」とも称すべき警衛の人数を置き、諸藩より「身材強幹忠勇気節」の人材を選募させ、時勢に従い「旧典を御斟酌」して「御親兵」とされたく思召される。親兵の武器食糧等は、諸藩へ命じて石高に応じた貢献を致させたい。ただし、これらは、「制度」に係る事柄に付き、「関東」(=幕府)で検討し、諸藩へ伝達するように。最も即今の急務でありので、早速評定せよとの御沙汰である
(参考:『続再夢紀事』一所収の勅書・沙汰書より要約)

このとき、両勅使は大広間の上段、将軍家茂・後見職一橋慶喜が中段(慶喜は家茂の後方)、総裁職松平春嶽・老中以下は下段に座しました。慶喜の回想では、従来は、将軍が上段・勅使が中段だったそうですから、これも松平容保が建議した勅使優待の成果の一つでしょう。

なお、10月28日の勅使着府から入城まで1ヶ月を要したのは、家茂が当時麻疹にかかっており、すぐには応接できなかったからでした。

参考:『続再夢紀事』一・『昔夢会筆記』(2004.1.16)
関連:■「テーマ別」「第2の勅使東下」 「国是:破約攘夷VS開国」 「親兵設置問題」「開国開城」「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」

前へ   次へ

1月の「今日」 幕末日誌文久2  テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索  HPトップ