1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
■攘夷奉勅問題(慶喜、2度めの登城スト) 【江】文久2年11月26日、将軍後見職の辞表を提出して登城停止中の一橋慶喜は、将軍に相談があるから出るよう命じられて、再登城しました。攘夷別勅使江戸城入城&攘夷の勅諚伝宣前日のことです。 慶喜が15日に辞表を提出して以来、政事総裁職松平春嶽(こちら)、老中ら(こちら)が登城再開を説得してきましたが、慶喜は応じませんでした。勅使登城を前日に控えたこの日の朝、春嶽は慶喜を再度訪問して登城を勧告しました。春嶽が慶喜に説得中、側衆佐野伊予守が来邸し、相談したいことがあるので登城するようにとの将軍の内命を伝えました。春嶽は、そのような直命があれば速やかに登城するべきだと言い添え、慶喜も、相談があるということなら、と、登城を承知しました。(実は、どうしても慶喜に登城再開してもらいたい幕府は、春嶽の訪問中に将軍の直命を下すことを予め打ち合わせていたのでした)。しかし、慶喜は将軍に謁見後すぐに帰宅するように見えたので、老中以下示し合わせて、慶喜にしきりに切迫した事情を訴えたそうです。結果、慶喜は、ようやく、これまでのように毎日登城することになりました。⇒テーマ別「攘夷VS開国」 ■京都武力制圧策 【江】文久2年11月26日、登城した大目付岡部長常は、幕議において、前夜に会津藩士外島機兵衛から説明のあった京都の情勢及び慶喜以下重職の即時上京要請(こちら)について報告しました。 驚きまた憤慨した諸有司は、(1)速やかに重職一同が上京すること、及び(2)殊に慶喜・春嶽・容保・容堂は10日以内に海路出発すべきだと、評議したそうです。 ■幕薩連合による公武合体派京都会議策 【江】同日夜、横井小楠は、上京後の方針を春嶽と協議するため越前藩邸を訪ねた容堂に、京都での薩摩藩をも含めた衆議による国是決定論を説明しました。 この頃、越前藩政治顧問である横井小楠は、「今日の要務」は、薩摩藩の島津久光父子に上京を促し、江戸からは春嶽・容堂が西上して会同し、京都で「大に天下の大計を議し然る上公武一致の国是を定め」ることだという意見で、その件で薩摩藩岩下佐次衛門・吉井幸輔・高崎猪太郎(高崎五六)と頻繁に打ち合わせていました(こちら)。春嶽は、その意見を容堂にも聞かせようと小楠も同席させておきました。 ところが小楠が意見を開陳する前に、京都守護職・会津藩主松平容保が、京都より帰ってきたばかりの家臣2名(外島ほか1名)を連れて来邸しました。容保は夜五ツ頃(20時頃)から四ツ半過ぎ(23時半過ぎ)まで、繰り返し京都の事情を説明したそうです。しかし、その大意は、この日の朝、岡部が城中で説明したことと同じで、その他は、久光の守護職任命を非とする話ばかりだったので、春嶽・容堂は「聞き倦」んでしまい、小楠にいたっては堪り兼ねて席を立ち、別席に出たそうです。容保の退散は九ツ(深夜0時頃)で、その後、ようやく小楠が戻ってきて意見を述べたのだそうです。 <ヒロ> う〜ん。ようやく越前藩を訪問したと思えば、聞き倦まれてしまうとは^^;。春嶽・容堂には、容保の主張は、しょせん幕「私」のため、また自分のための議論であり、国全体のためだとはないと思われていたのでしょうか。また、容保とは腹を割って話す気も、正面から議論しようという気も無いようです。春嶽・容堂・小楠が容保の政治的能力・識見についてどう判断していたかよくわかるエピソードだと思います。まぁ、容保は、政治面ではもとからは期待されてはいなかったようなのですが・・・。⇒テーマ別「容保VS春嶽・幕閣」 参考:『続再夢紀事』一(2004.1.15) 関連: ■テーマ別文久2「久光の守護職就任(会津VS薩摩)」 「京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議」 ■「開国開城」「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 |
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