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文久2年9月21日(1862.11.12)
【京】武市半平太ら、近衛関白留任勧告を密議
【江】長州藩周布・桂ら、横井小楠と初会談し、「疑因氷解」

■公武合体派排斥
【京】文久2年9月21日、土佐藩士武市半平太ら在京尊攘急進派は関白近衛忠煕の辞職勧告を密議しました。

夜半、武市は小南を訪れ、薩摩藩から依頼のあった近衛関白留任勧告について密議しました。その結果、藩主山内豊範から忠煕に懇請させることに内決したそうです。武市はこれを長州藩佐々木男也に告げました。

参考:『維新土佐勤王史』(2003.11.12)

■越前藩と長州藩
【江】文久2年9月21日、長州藩士周布政之助・桂小五郎・中村九郎が横井小楠を訪ねて話合ったところ、抱いていた疑念が氷解したました

常盤橋の越前藩邸の小楠の寓居を訪ねた周布らは、最初は何事か包蔵するところがあり、大いに議論しようという様子だったそうですが、小楠が胸襟を開いて話したところ、周布らも打ち解けて談話になったそうです。周布らが「貴所の事は従前聞き得たる處あり。又京師にても此節種々の悪評ありし故、実は疑因なきにあらざりしが、今日謦咳に接し、始めて疑因を氷解せり」と言ったので、小楠は<アメリカびいきの評を立てられて迷惑している>と答えたそうです。

また、その場にいた内藤素吉は「(最初は)応接間で談が恥じ案ルと、ついに激しい議論となり、先生に斬りかけんばかりの語気となった。先生のそばには脇差があるだけである。わしは刀をとって障子の外にひそみ、万一かれらが手を出せば、障子をけって踊りこみ、先生の危難を救うつもりであった。しかるに、いつとなく笑話にかわり、一同愉快な顔つきで帰っていった」と記しているそうです。

<ヒロ>
越前藩の政治顧問として中央政界をリードしていた小楠ですが、敵も多かったようです。4日には中根雪江を訪ねた桂が <最近、世間では、横井小楠を勤王の志がないとし、このような人物が越前公の参謀であっては天下の為にならないと評している。その中には、今後、道で出会えば容赦なく刺し殺すと言う者がおり、また、熊本藩士にも横井は、他藩の者の手を煩わす、自分たちが殺すという者もある>と小楠の外出をとどめるよう忠告しましたし、14日に、反改革派の不穏な動きを告げた周布が 、改革に学者から非難が起る理由は、江戸には高名な学者が多いのに、「辺阪の肥後より横井如き田舎学者を呼び登せて大政改革の議に吻を容れさせらるるが不平の根本」のようだ述べました。その上で、小楠は江戸の学者のみならず京都においても評判が芳しくないので、上洛の際、もし連れていけば、島田左近のような目にあうかもしれず、国許に遣わしてはどうかと忠告していました。

参考:『続再夢紀事』一、『横井小楠 その思想と行動』、『横井小楠 儒学的正義とは何か』(2003.12.27)
関連■テーマ別文久2「越前藩と長州藩」「横井小楠

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