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文久2年9月20日(1862.11.11)
【京】朝廷、三条実美を別勅使・姉小路公知を副使に任命
【江】攘夷奉勅:破約攘夷論をめぐり、町奉行小栗忠順と京都守護職松平容保の対立。

■攘夷の勅使派遣
【京】文久2年9月20日、朝廷は(破約)攘夷の勅諚の伝達のため、三条実美を別勅使・姉小路公知を副使に任命しました。また、土佐藩主山内豊範に勅使随従・周旋が命じられました。

去る9月16日、薩長土の激派有志は、攘夷勅使の奏請を決議しており(こちら)、18日には薩長土藩主が、攘夷勅使派遣を建白していました(こちら)。この日、朝廷は、18日に提出されたの建白を嘉納することに決めました。勅使派遣については、年頭勅使に委託すべきとの意見も出ましたが、結局、別勅使を送ることになりました。人選は薩長土の推薦する三条(26歳)・姉小路(24歳)に決まりました。

この後、10月11日〜12日、勅使、及び土佐藩主山内豊範と500名余の藩兵が京都を出発し、江戸に向かいました(こちら)。。

関連■テーマ別文久2「第2の勅使(攘夷督促&親兵設置)東下」■薩摩藩日誌文久2  ■長州藩日誌文久2 

■攘夷奉勅問題
【江】文久2年9月20日、天皇の望む破約攘夷を国是とするかどうかをめぐって、幕権を立てることを主張する町奉行小栗忠順と朝廷尊崇を主張する松平容保が対立しました。

この日、幕府は、前日に結論のでなかった春嶽提案の決戦の覚悟による破約攘夷論(こちら)について、大目付・町奉行・勘定奉行ら(芙蓉間)有司に議論させました。

小栗 「政権を幕府に委任せらるるは鎌倉以来の定制なり。然るに近時は京都より種々の御差綺ひあるのみならず、諸大名よりも様々の事を申立る事となり、夫(それ)が為め、已定の政務に変更を要する事あるに至れるは、以の外なる政府の失体なり。此上然権威を振われざらば、終には諸大名に使役せらるるにも至るべし」
容保 (憤激して)「京都の御指図を拒みては、尊王の大義に悖り、外夷の屈辱を受けては、国威を墜すべし。しか大義に悖り、国威を墜さば、幕府の権威何れの所にか振うを得べき」
春嶽 「公共の天理に依らずして、只管幕府の権威をのみ振わんとするは、一己の私なり。故に己を忘れて議せざるべからず」

しかし、有司は春嶽に同意せず、この日も結論はでませんでした。

<ヒロ>
このやりとりは越前藩資料『続再夢紀事』によります。なぜか、『七年史』には記されていないのです。

さて、容保は上京後も朝廷(孝明天皇)重視の姿勢を示し、幕威を第一と考える江戸の幕閣としばしば対立することになりますが、この日の小栗との議論にもその傾向が見られるのではと思います。また、容保も春嶽も、幕威を強調する小栗の意見に反対なのですが、その理由が違うところはポイントだと思います。容保が「京都の御指図」「尊王」を理由にしているのに対し、春嶽は「公共の天理」。容保が春嶽の公議公論重視をどう思ったのかがわかれば面白いのですが・・・。このときから5年後、王政復古をめぐっては、容保(会津藩?)はある意味小栗と同様の強硬な幕権回復派となり、春嶽ら公議政体派と対立するのが・・・面白いですよね。このへんの変化、これから5年かけてゆっくり追っかけていきたいです^^。

参考:『続再夢紀事』一、『七年史』一、『徳川慶喜公伝』2(2003.11.11)
関連:■テーマ別文久2」「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏「容保VS幕閣・春嶽」■守護職日誌文久2越前藩日誌文久2 

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