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元治元年10月24日(1864年11月23日)

【京】京都守護職松平容保、幕府に書を認め、将軍進発を促すとともに一橋慶喜の召喚(風聞)に異を唱える
【坂】尾張藩、越前藩に対し、征長の三策を示す。
【坂】征長総督徳川慶勝、薩摩藩西郷吉之助を引見し、長州恭順周旋のための芸州密行を了承する。
【坂】征長副将松平茂昭、家臣を老中稲葉正邦に遣し、汽船貸与及目付派遣を促し、軍艦奉行勝海舟同行を請う

☆京都のお天気:晴入夜雨下(嵯峨実愛日記)

>一会(桑)VS幕府首脳

■一会(桑)の江戸召喚問題
【京】元治元年10月24日、京都守護職松平容保は、在府老中に書を認め、将軍進発を促すとともに、禁裏守衛総督一橋慶喜の江戸召喚の風聞に触れて、慶喜を擁護し、その召喚に反対しました。

容保は、手紙の中で、慶喜召喚の風聞について、突然言上するのは恐縮だがと断った上で、慶喜の尽力は一方ならぬもので、特に禁門の変以降は専ら幕府のためにと深く考えており、「毛頭御疑」するような儀がないことは、自分が「断然」請けあうと、慶喜を擁護しています。さらに、「功労」者を江戸へ召喚すれば、御所や諸藩も幕府の処置に疑惑をもち、「慮外の患害」を生じるかもしれないとして、「御瞭察」を申し入れています。

<ヒロ>
征長軍が進発しようとしていても、在京会津藩は将軍進発をあきらめません!そもそも、横浜鎖港猶予・征長優先の朝命は、将軍上坂とセットですから(こちら)。でも、今回の手紙では、将軍進発については、阿部老中が帰府すれば当地の事情もよくわかり、一決することでしょう、と軽く触れているだけで、用件の中心は慶喜召喚への断固反対でした。

まあ、在京老中稲葉正邦も征長に出陣してしまうわけで、慶喜までいなくなってしまっては、京都における幕府側の責任者が不在になってしまいますしね。危機感は相当なものだったと思います。(一橋と会津が手を組んで朝廷を動かしていると疑っている江戸の老中には、こういう手紙は逆効果だったかもですが)。

参考:「会津藩庁記録」『稿本』(綱要DB 10月24日条)(2018/8/26、8/27)
関連:■テーマ別元治1「一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

>第一次幕長戦へ
■総督府の方針
【坂】元治元年10月24日、尾張藩士田宮如雲は、越前藩士酒井与十郎の問い合わせに対し、征長に関する総督府の三策(@父子降伏&吉川監物による過激派退治による謝罪の際は、幕府に寛大な処置を請う、A萩で降伏の際は、諸藩で過激派を治め、朝廷・幕府に許しを請う。公儀が苛酷な処置をすれば抗議する、B攻撃)を示しました。

越前藩に示された征長征督府の方針(てきとう訳)
第一策 諸藩が布陣した上、父子が降参し、岩国(=吉川監物)の手を以て過激の党を退治して謝罪を請うときは、飛檄をもってお知らせになり、いよいよ都合よきときは、父子の処置かつ二国の御処置を公儀に伺う予定である。
第二策 父子が萩で降伏を請う際は、総督・副将を始め、諸藩が萩へ進み、「激暴な党」を治め、朝廷・幕府へ申し上げてお許しを願う。しかしながら、公儀にて父子の命を絶ち、両国没収等のことが出されれば、尾張をはじめ、一統の願いをもって父子助命かつ両国の没収を願い返す。
第三策 攻撃。

<ヒロ>
寛大ですよね。

越前藩は、藩主父子の「面縛開城」以外は攻撃の手を緩めぬ方針を主張していました。それに対してこれまで尾張藩は「もっとも」というだけで、積極的な返事をしていませんでした(19日22日)。その後、恐らく、長州藩主父子が山口から萩に移ったとの情報が越前藩に入り、越前藩も萩に向かうべきではないかと問い合わせたのでしょうか。尾張藩からは、もし、父子が防戦のつもりであれば合戦になり、山口へ再び引き込むので、今の時点で萩への出陣の相談は無益だといわれました。そのうえで提示された三策になります。

また、越前藩は、総督の責務については、降伏する父子を受取り、江戸へ差し出してその指図に任せることであることを尾張藩と確認していましたが(19日)、この日の尾張藩の返答は、これまでより踏み込んでおり、寛大な処分を働きかけることを方針としています。「面縛開城」の件もうやむやです。

その背景にあったと思われるのが、尾張藩と西郷の会談です。↓


■長州恭順周旋
【坂】元治元年10月24日、征長総督徳川慶勝は、薩摩藩西郷吉之助を引見し、西郷が芸州に密行して長州恭順の周旋をする事を了承しました。

この結果、26日には西郷吉之助は薩摩藩士吉井幸輔、尾張藩士若井鍬吉とともに大坂を出立し、芸州に向かいました。

(10月25日付小松帯刀宛て西郷吉之助書簡のてきとう訳)
尾張藩若井鍬吉(=側用人)に演達の趣を申し上げて置いたところ、晩前に書状が届き、老候(=慶勝)がお会いになるので、御旅館に罷り出るようとのことだった。早速参ったところ、最初は、田宮如雲と面会し、篤と事情を話した。

永井主水丞(=大目付永井尚志)が後から参上して、暫時打ち合わせがある様子なので、控えていたところ、老侯が御会いになるというので罷り出た。

御丁寧な御挨拶ぶりで、(西郷の)打ち明けた存慮をお知りになりたいとのことだったので、吉川辺の内情の次第を詳しく申し説いた。そのうえ、(征長の)御策略については、敵方が両端に分かれて「暴党・正党(武備恭順の急進派・恭順専一の保守派)」となっているのは誠に天の賜と申すべきで、たとえ、一致していたとしても策をめぐらして両端となるようすべきこそ戦法であるところ、両立のものを一に死地に追い込めるのは誠に無策と申すべきで、実に拙い次第である(※)のに、謝罪の筋を立てる帰順の者をを悉く賊人といたすのは、御征伐の本意とは考えられず、帰順いたすように御扱いになられることこそ御征伐の本旨であると考えていることを、理を尽くして申し説いた。

成瀬隼人正(=尾張藩附家老・犬山城主成瀬正肥)も(慶勝の)御前に召し呼ばれての御質問であり、ひとえに御頼み思召すので、「一張尽力」するよう分けて御頼みなさるとの事であった。

そこで、(西郷の率いる薩摩の)「救応」(隊)を芸州に暫く滞在させ、機会をみて岩国に乗り込む計画を説明した。

ところが、老侯からの御達しにつき、諸藩がことごとく攻め口の難渋を申し立てて、変更を主張するので、総督府は実にお困りの様子で、戦略のことはまず次にし、攻め口の事ばかりになっているとのことであった。それゆえ、今、(薩摩藩の)攻め口(の変更)を御達しになっては諸藩にも影響を与え、一同、動揺することである。もちろん、御達しなく、勝手に岩国から兵を進撃させては、諸方も一同に崩れ、自分勝手に攻撃し始めるようになるため、総督が芸州へ到着後、俄かに総督のお考えとして(薩摩藩の)萩の攻め口を変更して岩国に振り替えてはどうかとのことであった。

(西郷からは)何も支障はなく、実は、「救応隊」は、芸州から陸軍を進めるつもりで、芸州に布陣をさせ、既に兵士を配置しており、御下知に従って、岩国に乗り込むよう心得えよていると申し置いた。それでは、この件は、極密にするよう承り、委細承知仕ったと答えて置いた。

老侯様から御脇差の拝領を仰せつけられ、「一向尽力」するようにとの事であった。尾州でも「胸一杯」(=頭が一杯)となり、諸藩については攻め口等で難渋し、弱り目ばかりが見えるため、「もふ」は薩州を取り込まねば「尾の取れ」ることはないとの見込みになっているのではないかと考えられる。・・・尾州の会釈も格別変化し、(薩摩藩・西郷?に)依頼とばかり申しているぐらいである。・・・

<ヒロ>
西郷の書簡を読んでいると、西郷の説得で慶勝が恭順周旋説に動いたかのように思えます。でも、そうではないです(だいたい、西郷の書状は(国許への)自己アピール的側面も強く、なんでも自分の手柄のように書いている傾向があります)。これより先、慶勝自身も、吉川監物(経幹)に密使を送って恭順周旋を勧めていました(こちら)。使者が岩国に着いたのが10月20日なので、まだ復命していなかったようですが。一方で、21日までには、岩国・芸州で(筑前藩士と一緒に)監物に恭順周旋をしていた薩摩藩士高崎五六が大坂に到着し、その首尾や、今後西郷が芸州に乗り込む計画であることを、越前・肥後・尾張藩等にも伝えたそうです(こちら)。その話は、もちろん慶勝にも伝わっていたはずです。そこへ、西郷から接触があった・・・。

対長州強硬派の越前藩に責めたてられている慶勝にすれば、渡りに船ということだったのではないでしょうか。征長総督自ら、戦う前に恭順周旋を積極的に推し進めるすることは、いくら委任状をもらっていたとしても、幕府や孝明天皇(や長州強硬派諸藩)に対してまずいので、薩摩藩から出たアイデアという形にしたかったのでは??

西郷は、本音では、薩摩藩のことしか考えていないのですが(長州が壊滅させられると薩摩藩の利益にならないし、長州に死に物狂いで抵抗されると薩摩藩担当の萩が激戦になるので困る、萩の攻め口を変更したい)、そんなことをおくびにも出さず、うまい具合に話を進めています。なんだか、征長にやる気のない慶勝が、まんまと付け込まれてしまったという感じがします。

(それにしても、幕府が、征長総督をやる気満々だった紀州のままにしておけば話は違ったかもしれないと思うのですが、なぜ、やる気のない尾張に変えちゃったのでしょう)

参考:『越前藩幕末維新公用日記』(本多修理日記)p51、『西郷隆盛全集』一p434-437 (2018/8/26)
関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1)

>勝海舟江戸召喚
【坂】元治元年10月24日、召喚された軍艦奉行の勝海舟は、大坂を発ち、陸路江戸へ向かいました。この日は、淀川を上って伏見に到りました。その途中、尾張藩兵三千人が大坂へ向かうのを目撃したそうです。

<ヒロ>
勝は、22日、御用のための東帰を命じられていました(こちら)。

この日の勝の日記を最初に読んだときは、尾張藩兵が下坂する様子を記しているのが、切ない感じがしました。でも、これから征長戦で外国船もいつ兵庫にやってくるかわからない状態で、勝海舟が素直に江戸に戻ったってことは、やっぱり、先に東帰した阿部老中を応援して江戸のの役人を退治するつもりだったのかな、という気が。そうすると、別に空しい気持ちだったわけでもないのかな・・・と思ったりします。

参考:『勝海舟日記』一(2018/8/26)

【坂】元治元年10月24日、征長副将松平茂昭は、家臣青山小三郎を淀の老中稲葉正邦に遣し、かねてより申し入れていた汽船貸与及び大小目付派遣を促し、また、軍艦奉行勝海舟の拝借を請いました。

翌々26日に復命した青山によると、汽船の件は勝海舟に相談すること、勝海舟拝借は江戸にまず伺うこと、目付の差し添えは困難であることを伝えられたそうです。

<ヒロ>
茂昭が淀で使者を送った時点では、勝海舟が江戸に呼び戻されたことを知らなかったのかもですね(もしかしたら稲葉老中も知らなかった??)・・・いざ征長で、しかも海路も使うっていうときの軍艦奉行の呼び戻しについて、征長副将や老中が知らされていないというのは、なんともちぐはぐな感じです。(勝は、帰府後に登城した際に、老中阿部正外に慶勝の口上を伝えているので、少なくとも慶勝は勝の江戸召喚を知っていたようです)。

参考:『越前藩幕末維新公用日記』(本多修理日記)p52、「征長出陣記」『稿本』(綱要DB 10月24日条)(2018/8/26)
関連:テーマ別元治1■勝海舟@元治1年

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