「今日」トップ 元治1年10月 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
◆10/22へ ◆11/2へ
☆京都のお天気:晴入夜雨下(嵯峨実愛日記) >一会(桑)VS幕府首脳 ■一会(桑)の江戸召喚問題 【京】元治元年10月24日、京都守護職松平容保は、在府老中に書を認め、将軍進発を促すとともに、禁裏守衛総督一橋慶喜の江戸召喚の風聞に触れて、慶喜を擁護し、その召喚に反対しました。 容保は、手紙の中で、慶喜召喚の風聞について、突然言上するのは恐縮だがと断った上で、慶喜の尽力は一方ならぬもので、特に禁門の変以降は専ら幕府のためにと深く考えており、「毛頭御疑」するような儀がないことは、自分が「断然」請けあうと、慶喜を擁護しています。さらに、「功労」者を江戸へ召喚すれば、御所や諸藩も幕府の処置に疑惑をもち、「慮外の患害」を生じるかもしれないとして、「御瞭察」を申し入れています。 <ヒロ> 征長軍が進発しようとしていても、在京会津藩は将軍進発をあきらめません!そもそも、横浜鎖港猶予・征長優先の朝命は、将軍上坂とセットですから(こちら)。でも、今回の手紙では、将軍進発については、阿部老中が帰府すれば当地の事情もよくわかり、一決することでしょう、と軽く触れているだけで、用件の中心は慶喜召喚への断固反対でした。 まあ、在京老中稲葉正邦も征長に出陣してしまうわけで、慶喜までいなくなってしまっては、京都における幕府側の責任者が不在になってしまいますしね。危機感は相当なものだったと思います。(一橋と会津が手を組んで朝廷を動かしていると疑っている江戸の老中には、こういう手紙は逆効果だったかもですが)。 参考:「会津藩庁記録」『稿本』(綱要DB 10月24日条)(2018/8/26、8/27) 関連:■テーマ別元治1「一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ」 >第一次幕長戦へ ■総督府の方針 【坂】元治元年10月24日、尾張藩士田宮如雲は、越前藩士酒井与十郎の問い合わせに対し、征長に関する総督府の三策(@父子降伏&吉川監物による過激派退治による謝罪の際は、幕府に寛大な処置を請う、A萩で降伏の際は、諸藩で過激派を治め、朝廷・幕府に許しを請う。公儀が苛酷な処置をすれば抗議する、B攻撃)を示しました。 越前藩に示された征長征督府の方針(てきとう訳)
<ヒロ> 寛大ですよね。 越前藩は、藩主父子の「面縛開城」以外は攻撃の手を緩めぬ方針を主張していました。それに対してこれまで尾張藩は「もっとも」というだけで、積極的な返事をしていませんでした(19日や22日)。その後、恐らく、長州藩主父子が山口から萩に移ったとの情報が越前藩に入り、越前藩も萩に向かうべきではないかと問い合わせたのでしょうか。尾張藩からは、もし、父子が防戦のつもりであれば合戦になり、山口へ再び引き込むので、今の時点で萩への出陣の相談は無益だといわれました。そのうえで提示された三策になります。 また、越前藩は、総督の責務については、降伏する父子を受取り、江戸へ差し出してその指図に任せることであることを尾張藩と確認していましたが(19日)、この日の尾張藩の返答は、これまでより踏み込んでおり、寛大な処分を働きかけることを方針としています。「面縛開城」の件もうやむやです。 その背景にあったと思われるのが、尾張藩と西郷の会談です。↓ ■長州恭順周旋 【坂】元治元年10月24日、征長総督徳川慶勝は、薩摩藩西郷吉之助を引見し、西郷が芸州に密行して長州恭順の周旋をする事を了承しました。 この結果、26日には西郷吉之助は薩摩藩士吉井幸輔、尾張藩士若井鍬吉とともに大坂を出立し、芸州に向かいました。 (10月25日付小松帯刀宛て西郷吉之助書簡のてきとう訳)
<ヒロ> 西郷の書簡を読んでいると、西郷の説得で慶勝が恭順周旋説に動いたかのように思えます。でも、そうではないです(だいたい、西郷の書状は(国許への)自己アピール的側面も強く、なんでも自分の手柄のように書いている傾向があります)。これより先、慶勝自身も、吉川監物(経幹)に密使を送って恭順周旋を勧めていました(こちら)。使者が岩国に着いたのが10月20日なので、まだ復命していなかったようですが。一方で、21日までには、岩国・芸州で(筑前藩士と一緒に)監物に恭順周旋をしていた薩摩藩士高崎五六が大坂に到着し、その首尾や、今後西郷が芸州に乗り込む計画であることを、越前・肥後・尾張藩等にも伝えたそうです(こちら)。その話は、もちろん慶勝にも伝わっていたはずです。そこへ、西郷から接触があった・・・。 対長州強硬派の越前藩に責めたてられている慶勝にすれば、渡りに船ということだったのではないでしょうか。征長総督自ら、戦う前に恭順周旋を積極的に推し進めるすることは、いくら委任状をもらっていたとしても、幕府や孝明天皇(や長州強硬派諸藩)に対してまずいので、薩摩藩から出たアイデアという形にしたかったのでは?? 西郷は、本音では、薩摩藩のことしか考えていないのですが(長州が壊滅させられると薩摩藩の利益にならないし、長州に死に物狂いで抵抗されると薩摩藩担当の萩が激戦になるので困る、萩の攻め口を変更したい)、そんなことをおくびにも出さず、うまい具合に話を進めています。なんだか、征長にやる気のない慶勝が、まんまと付け込まれてしまったという感じがします。 (それにしても、幕府が、征長総督をやる気満々だった紀州のままにしておけば話は違ったかもしれないと思うのですが、なぜ、やる気のない尾張に変えちゃったのでしょう) 参考:『越前藩幕末維新公用日記』(本多修理日記)p51、『西郷隆盛全集』一p434-437 (2018/8/26) 関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1) >勝海舟江戸召喚 【坂】元治元年10月24日、召喚された軍艦奉行の勝海舟は、大坂を発ち、陸路江戸へ向かいました。この日は、淀川を上って伏見に到りました。その途中、尾張藩兵三千人が大坂へ向かうのを目撃したそうです。 <ヒロ> 勝は、22日、御用のための東帰を命じられていました(こちら)。 この日の勝の日記を最初に読んだときは、尾張藩兵が下坂する様子を記しているのが、切ない感じがしました。でも、これから征長戦で外国船もいつ兵庫にやってくるかわからない状態で、勝海舟が素直に江戸に戻ったってことは、やっぱり、先に東帰した阿部老中を応援して江戸のの役人を退治するつもりだったのかな、という気が。そうすると、別に空しい気持ちだったわけでもないのかな・・・と思ったりします。 参考:『勝海舟日記』一(2018/8/26) 【坂】元治元年10月24日、征長副将松平茂昭は、家臣青山小三郎を淀の老中稲葉正邦に遣し、かねてより申し入れていた汽船貸与及び大小目付派遣を促し、また、軍艦奉行勝海舟の拝借を請いました。 翌々26日に復命した青山によると、汽船の件は勝海舟に相談すること、勝海舟拝借は江戸にまず伺うこと、目付の差し添えは困難であることを伝えられたそうです。 <ヒロ> 茂昭が淀で使者を送った時点では、勝海舟が江戸に呼び戻されたことを知らなかったのかもですね(もしかしたら稲葉老中も知らなかった??)・・・いざ征長で、しかも海路も使うっていうときの軍艦奉行の呼び戻しについて、征長副将や老中が知らされていないというのは、なんともちぐはぐな感じです。(勝は、帰府後に登城した際に、老中阿部正外に慶勝の口上を伝えているので、少なくとも慶勝は勝の江戸召喚を知っていたようです)。 参考:『越前藩幕末維新公用日記』(本多修理日記)p52、「征長出陣記」『稿本』(綱要DB 10月24日条)(2018/8/26) 関連:テーマ別元治1■勝海舟@元治1年 |