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元治1年11月17日(1864.12.15)
 【小倉】薩摩藩吉井幸輔、越前藩陣営を訪問、
長州降伏条件履行の確実な見込みが立てば解兵するように
副将から建言するよう申し入れる

☆京都のお天気:快晴午後晴陰交(嵯峨実愛日記)

>薩摩藩vs朝幕協調派
【京】元治元年11月17日、中川宮は、肥後藩留守居上田久兵衛を召し出し、、薩摩藩家老小松帯刀の「反復(=反覆)之計策」について内々に相談しました。

<ヒロ>
久兵衛は、かねてから薩摩藩に嫌疑をもっており、11月8日には、二条邸を訪れ、関白の家臣高島に「薩之姦計」を探るなど、方々を回っていました。この日、中川宮から聞いた計策とは、やはり、小松が、長州処分をめぐって、朝廷と幕府を離間させようとしているということでしょうか(こちら)。もしかしたら、小松が、吉川藩家臣に説明したように、中川宮・二条関白が「至極御満悦」で、天皇も喜んで、幕府が苛酷な処分をせぬようにとの意向を示したというのはかなり誇張したもので、本当は無理やり押し込んだのかも?

参考:上田久兵衛の日記『幕末の京都の政局と朝廷』p222,224(2018/9/2)
関連:テーマ別元治1■薩摩藩の朝幕離間策・嫌疑

>第一次幕長戦
■長州の恭順謝罪
〇薩摩藩の周旋

【小倉】元治元年11月17日、薩摩藩吉井幸輔が、越前藩陣営を訪問して、応対した酒井十之丞に芸州の情勢を伝えるとともに、長州降伏の条件履行の確かな見込みがたてば解兵すべきだと論じ、同意であれば副将から建言するよう申し入れましたた。

酒井は、肥後藩と相談してから返答することにしました。

その後、越前藩では肥後藩士沼田勘解由、長谷川仁右衛門、小宮民部とともに、吉井幸輔の申し入れを評議しました。肥後藩では、藩主弟長岡良之助が明18日に小倉に着陣予定なので、この件を言上し、見込みを定めた上で、明日返答することになりました。(肥後藩は翌日OKの返答をしています)

<ヒロ>
越前藩が小倉に到着して以降、肥後藩士が頻繁に訪れています。横井小楠つながりの人たちも結構います。ちなみに、翌18日には、別の肥後藩士から、征督府による吉川監物の詰問の状況を教えてもらうのですが、その際、吉川が長州藩主が服罪すれば(越前藩が主張していた)面縛開城は猶予するよう求め、総督徳川慶勝がそれを認めたことも知らされます。(やっぱり・・・なのですが、副将の部下である越前藩士が総督府に詰めていないのは、ちょっと驚きです)

参考:『幕末越前藩公用日記』(本多修理日記)p66−68
関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1)

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